プログラマになりたい、と思ったのは小学生の頃でした。
友人の家にあったPC-66、そしてベーマガ※1。
衝撃を受けた、という程の記憶はないんですけど。
プログラムって物がなんだかカッコよく見えました。
当時はどれほど高価※2な物かも知らず、
ただパソコン欲しいって言ってました。
「おばあちゃんパソコン買って」
「はい、グラスホッパー」
「イヤンそれラジコ~ン」
・・・とあるクリスマスの懐かしい記憶です。
初めてパソコンに触れたのは中学生。
父親が仕事用に買ったPC-98でした。
5インチのペラッペラなフロッピーディスク、
ガッチョンガッチョンやかましい2台のドライブ、
電源投入時のピポッてBEEP音。
・・・こうやって書いてるだけでも懐かしいですね。
といっても大した事をしてたって訳でもなく、
ベーマガ掲載プログラムを入力して動かしたり、
たまに自分のオリジナルでプログラムを作ったり。
プログラムの基本のキはこの頃学びました。
友達に借りたゲームで遊んだりもしましたね。
チート用ツールみたいなものは当時もあって、
ゲームのセーブデータを弄ったり。
コンピュータのメモリとアドレス、バイト表現、16進等、
仕組の部分もそうやって学んだ気がします。
今の自分に通じる基礎はほぼこの頃で学びました。
とにかく全てが楽しくて仕方なかったです。
他人のプログラムを見ながら、
ここをこう変えたらどうなるの
あれ、なんかヘンになっちゃた
ここでこうして・・・ここまでOKか
じゃあこれ?おおお上手くいったー!
みたいな感じで。
デバッグは遊びの延長線上にあって、
そしてそのまま学びになってました。
普段がそんなですから、担任にも言う訳ですよ。
「将来はプログラマーになりたい」って。
高校受験の時には、高専に行きたいって。
(当時既に、高専には情報科がありました)
そんな私ですが、数学の点数は非常に低く。
どうにも苦手だったんですねえ・・・
(得意科目は国社英。文系SEの典型)
なので担任は必死のパッチで阻止してくる訳です。
「その数学の点じゃ無理」
「苦手科目の進学は将来大変」
「高専は理系短大扱いで就職厳しい」
※1980年代の中学教師の認識です
これは三者面談なんかで担任とかなりやり合いました。
自分の人生、他人に口出しされる謂れはない!
とかって。
最終的に、担任の方から
「別の私学も公立も受けるなら高専受けてもイイヨ」
って(なんで上からなのかはともかく)妥協案が出て、
それに両親が同意してしまったので。
バーター条件の元、高校受験に臨みました。
滑り止めの私立電子科、本命の高専、
金銭的理由から公立普通科、のラインナップです。
私立は滑り止めというのもあって無事合格。
本命の高専は思ったより試験の手応えもよく、
同じ中学から受けた5人との答え合わせもバッチリ。
沢山の人の期待に応え、見事に私だけ不合格でした。
合格した4人の生暖かい視線で心のやらかい場所が痛かったです。
この時点で自分の中では私学進学が決定してました。
私学進学の希望を伝えても、公立は受けろと押す担任。
行く気もないのに受験とか時間も金も勿体無い、と私。
担任がどこがオススメだ、ここの学校もイイ、などと
あれこれ勧めてくるけど、全部聞き流してました
最終的には、親が担任に説得されてしまって、
不承不承ながら受験する事になってしまいました。
受験後、前年より倍率がグンと上がった事が判明し、
担任にめっちゃくちゃ謝られたのですが、
そんなものこっちからすればシメシメですよ。
ラッキー以外の何者でもねぇな!と思ってました。
そして卒業式を経て合格発表へ。
沢山の人の期待に応え、見事に合格でした…。
ま、合格したトコロで俺はどうせ私立に行くんだし。
そう思っていた時期が私にもありました。
お金の事で泣き付かれては、
養われる身では抗う術もありません。
周囲からの強固な説得というか脅迫、
それらに負けて公立へ進学しました。
もの凄く悔しかった事を覚えています。
大人が勝手に決めた答えを押し付けられた事。
それに説得されてしまった自分に対する失望。
今冷静になって考えてみれば、試験で手を抜けばよかった。
それだけの事だったんですよね。。。
まだまだ、子供でした。
この後高校、大学を経て、社会人になっていきますが、
続きはまた後日。
※1 電波新聞社のマイコンベーシックマガジン。パソコンではなくマイコン。
※2 NECの名機PC-88の標準価格は228,00円。当時の大卒初任給は13万程。