インフラSE的メシのタネ(1)

昨日のエントリを見返しと、タイトルが の ばっかりですね…

ということで、ちょっとだけタイトルを変えてみました。

 

今日から仕事の話をボチボチと書いていこうかなと思います。

 

 

そもそもインフラSEって何をするのか?と言いますと。

多分、業種や立場でかなり内容に差があるのではないかと思います。

 

企画が必要な人は最新情報を追いかけてるでしょうし、

管理が必要な人は過去実績の把握に務めるのでしょうし、

構築が必要な人はその具体的作業を深堀りするのでしょう。

 

ネットワークを絡めて考える必要もあれば、

セキュリティを意識して検討する必要があったり、

現行資産を可能な限り活用できるプランニングだとか。

 

 

私は主に設計~導入までの業務に従事しています。

だいたいのパターンで考えると、

1.要件定義があって

2.稼働中システムについて調査して、

3.1と2の情報を元に環境や運用の設計を行い、

4.設計した環境を構築する。

5.出来上がった環境が設計意図通りに動作するかをテストし、

6.アプリケーションを含めたシステム全体のテストを経て、

7.本番稼働を迎える

といった流れが多いですね。

 

世の中にはデスマーチの話がたくさん転がっていて、

私自身も朝7時出社の深夜2時退社などを経験してきましたが、

携わったプロジェクトの本番稼働が遅れた事はありません。

運なのか巡り合わせなのか、幸せな事なんだと思います。

 

 

 

インフラSEに必要なスキルとしては、

ノイマン型コンピュータの構成が理解できている、

が最低限の知識レベルになるかと思います。

ここに、ネットワーク的な素養としてTCP/IPの知識であるとか、

データベース関連の素養としてRDBMSの知識であるいった、

コンピュータ上で動作するものについての理解が求められます。

 

開発だけやってるメンバーなんかは、

ちょっと○○を××したいから準備しておいて!

なんて軽く言ってくるのですが、

その為に必要になるバックボーンについては、

全くといっていいほど無知な事が多いです。

 

コンピュータは動くもの、やりたい事は出来るもの、

といった「当たり前」を提供するのが、

インフラSEに求められる仕事の一つです。

 

こういう無茶振り依頼をなるべく簡素に、間違いなく、

素早く完了する為の方法を編み出していく事も、

インフラSEの仕事(というより業務改善)なのでしょう。

 

その為には、WindowsバッチやUNIXシェルの作成も必要ですし、

あるデータを参照するのに、テキスト/Excel/DB化のどれがいいか、

判断出来る力も求められます。

 

管理対象となる機器だけでなく、そういった自作ツールなどの情報も、

業務の引継を意識して普段から整理・可視化する事も必要になります。

 

プログラマに比べて広範囲な知識を求められるケースが多い、

というのが特徴なのかも知れません。

 

今回は、ここまで。

 

フリーランスのインフラSEのメシのタネ

なかなか仕事が忙しく、平日にブログを書く元気が残りませんね。

過去に2年程勤めた現場への復帰なんですが、

みんな見知った顔という気安さか、ジャンジャンバリバリ仕事を振ってくるので…

 

そんな訳で、ちょっとタイトルには語弊があるかも知れないのですが。

各職場でどのようなタスクをこなして、どのようにそれらを捌いてきたのか、

それがどのように受け入れられて、私の評価や価値、

もっとゲスな言葉で言えば単価、になったのか。

逆に言うと。

 

こんな感じで仕事してたらおちんぎんあがりました!

 

そういう体験談を書いてみようかなと思います。

 

 

 

もっとも、個人的に自分の仕事のやり方は随分泥臭くて、

頭の悪さ通りに効率も悪く処理の仕方もチグハグ、

だったりすると思うんですけども。

 

それでも、契約単価はじわじわ上がってます。

というか10年前と比較すると楽勝で倍以上になってます。

 

 

 

派遣社員から、知己を得た営業さんのお陰でSEとなり。

なった当初は30万ちょっとの給料でした。

それが今では確定申告だけでなく消費税も収めるハメになり。。。

この時期はなかなか大変です。

 

今日はちょっとお酒入ってるので、明日からちゃんと書きます。

明日から…!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう先延ばしばかりする人は大成しないとわかってはいるのですが。

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(5)

新しい仕事で忙しくなって、なかなかブログ書く時間が取れません・・・

前回何をどこまで書いたのか忘れてしまう自分がおりまして(笑)

どうやらプログラマになるまで、を書いてたようですので、その続きを。

 

———————————————–

 

27歳で、遂に念願のプログラマデビューを果たしました。

わたしとAさんが派遣社員、社員のSさんがリーダー。

小さなチームで挑んだ新システムへのデータ移行プロジェクトでした。

 

 

毛も生えない初心者だった私は、それはもうアレコレと怒られました。

毎日怒られに職場へ行ってた、と言っても過言ではありません。

Sさんには嫌われてしまったのか、かなり細かい事まであせる

 

提出資料の字が汚い、ファイル名が分かり難い、PCのデスクトップが汚い、

挨拶の声が小さい、印刷資料のフォントサイズが小さい、等々。

ありとあらゆる事で怒られ続けました。

リアルに胃痛を感じるようになって、毎日つらかったです。

ようやく手が届いた憧れなのに、だんだん仕事に行きたくないと思うように。。。

 

 

この状況を変えてくれたのが、Nさんという方でした。

プロジェクトの途中で追加要員として参加したNさんは、

励ましてくれたりSさんを抑えてくれたりと、

仕事面も精神的にもフォローして下さいました。

そのお陰でなんとか最後までやり通せたのだと思います。

 

Sさん、Nさん、Aさん、そしてわたし。

4人のプロジェクトがどのようにして終わったのか、正直覚えていません。

とにかく必死の毎日でした。

せっかく1年半ほど辞めていたタバコにも手を出す始末。

 

 

正直自分には向いてないのかと感じていましたし、

プロジェクト終了と共に、自分のプログラマ人生は終わる、

そんな風に思っていました。

やっぱり担任の言ってた事は間違ってなかったのかな、って。。。

 

そんな私に声を掛けたのが、Sさんの上司だったTさん。

タバコ部屋でのちょっとした立ち話でしたが、

「頑張ってくれてありがとう。これからもよろしく。」

みたいな話でした。

 

 

・・・これから?まだこの生活続くカンジ??死んじゃう???

 

 

と、かなり戸惑った覚えがあります。

 

 

 

プロジェクト現場だったオフィスではSさんの会社、

J社の方々がシステム運用業務に従事されてました。

そちらのチームで引き続き業務に従事して欲しい、

とのご依頼を、後日正式に頂きました。

 

 

Sさんが自社に戻られる(つまりイビ…御指導をもう受けなくてよい)事と、

移行プロジェクトメンバーの仕事ぶりを見て選んだ、というお話を聞いて、

この先も頑張ってみよう!と引き受ける覚悟をしました。

 

 

 

Tさんはとても仕事の出来る方で、この部門のシステムを全て把握している、

ヌシのような存在でした。役職や立場に関係なく、皆が頼っていました。

こんな風になろう!と憧れたものです。

 

実際、今の自分の考え方の多くは、Tさんに影響されていると思います。

システムはただ構築するのではなく根底に思想が必要だ、

いう言葉はとても深く自分の中に根付いています。

 

 

 

Tさんの元では、2年間みっちり修行させて頂きました。

初めての業務プログラム開発、そしてプログラム設計、

開発チームのリーダー、顧客IT部門との折衝。

 

これまでやってきた仕事は、やる事が予め明確になっていました。

これからは自分でたくさんの事を決めなければならない。

この時初めて社会人らしい仕事に触れたのかも知れません。

 

 

 

初めてのプログラム開発では、笑われながらも、

初めてにしてはよく出来てる、頑張ったな、って褒めて頂きました。

データベースに「区分1」なんて日本語を突っ込んだのも、

今となっては懐かしい想い出です・・・てへぺろ

 

 

2年後にこの現場を離れる事になったのは、お客様の事情。

J社さんの組織変更もあって、私も契約を終える事になりました。

 

前出の営業さんからすぐに次の仕事の提案を頂きましたが、

そこはあまり肌に合わず、1年で去りました…

 

 

 

 

結局、幼い頃あんなに憧れていたプログラマーでしたが、

私がプログラマーとして仕事をしたのはこの3年程だけでした。

 

 

短い間の、小さな小さな矜持でしかありませんが。

 

たしかに自分は達成した。

 

そう思える事が自分を支える一つの柱であることは、

疑う余地もありません。

 

 

 

 

プログラマの終わり頃に開発を含めた移行プロジェクトに携わり、

それがきっかけになったのか、移行プロジェクトばかりに関わるように。

 

少しずつプログラム開発からタスクが離れていき、

それと共にインフラ作業の比率が増えていき、

そうして気付けば今。

 

 

いつの間にかインフラSEとして生きています。

 

 

大手ベンダの仕事と関わるようになってからは、

これが生業と自信を持って言える位には稼いで、

それなりに困る事が少ない暮らしを送っています。

 

しんどい事もいっぱいいっぱいいーっぱいありますが、

期待して任せて頂く仕事も増えましたし、

現場の関係者からも嬉しい評価頂いたり。

 

やっぱり、基本的に好きな事だからなんでしょうか。

鬱になる事もなく元気に楽しく働いてますね。

 

 

 

 

 

だから、やっぱりこう思うんです。

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになって、

人生充実してるなーって!!!

 

 

 

– 終わり –

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(4)

25歳にして遅れ馳せながらIT業界に踏み入れた私。

この時、学歴は高卒、資格は普通免許のみ。
業界というか、そもそも社会人を未経験。

 

とても不安な気持ちだったのを覚えています。

 

 

その私の初めての仕事は、いわゆるテスターと呼ばれるものでした。

 

 

テスト仕様書に従って、その通りに動かして問題ないか、

ひたすら確認するといった内容。

 

対象の機器はWebページを表示する端末だったのですが、

仕様通りのWebページが見つからない場合に、

手書きHTMLでテスト用ページを作ってました。

 

趣味が実益に繋がった初めての瞬間でした。

 

 

ちなみにこの仕事の勤務地なんですが。

高校一年の夏、ギターを買うお金の為のバイト。

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

その納入先だったSHARPの工場だったのです。

タダの偶然とは分かっていても、感慨深いものがありました。

 

 

 

この仕事は三ヶ月の期間で募集されていたのですが、

ありがたい事に契約延長の希望を頂きました。

立場も一担当者からチームリーダーに昇格し、

更に仕事にドップリ浸かる事になっていきます。

 

 

その後、この現場では2年働きました。

社員でも無いのに、随分こき使われました。

そしてその分、育てても頂きました。

どちらかと言えば、勿論感謝が勝っています。

ここでの2年も、今の私の足場を築いた大切な時間でした。

 

人を使う難しさ、人を気遣う優しさ、仕事への向き合い方。

同僚や上司、部下、様々な人と関わりながら学んだ日々でした。

 

 

この仕事を辞めた理由は、一言で言えば「将来性」です。

 

機器の仕様を元にテストする項目を検討して実施。

この道の先で、自分は何が出来るようになっていくのだろう、

そういう不安感が芽生えた事がきっかけでした。

 

 

ちなみにこの時仕事を辞めた後に、

初めての海外旅行を経験しました。

かなり色々な出来事に出会えたので、

またいつか書いてみたいと思います。

 

 

次の仕事は、やっぱりプログラマをやってみたい。

昔のバイト仲間がプログラマで就職していたので、

面接だけでもと口利きをお願いしてみた所、

いきなり社長面接して貰える事になりました。

 

これはかなり好感触だったのですが、

結局その後連絡がありませんでした。。。

 

 

そこで、今までとは違う大手派遣会社の面接へ。

 

この時の出来事というか面接の内容が、

結構忘れられない出来事なんですが、

面接官の初老の男性に、それはもうボロクソに、

お前に価値ど無いとばかりに貶されました。

曰く。

 

大学を辞めて何をしてたのか。

2年ぐらいのテスター経験で仕事をしてきたつもりか。
そんな歳まで遊んでいて仕事があると思っているのか。
自分が何か世の中の役に立てるつもりなのか。
面接を受けても不採用に決まってるん。諦めろ。
君なんか紹介するだけ無駄だ。

 

忘れもしないパソ○テックさん、その節はお世話になりました。

 

ここはもうアテには出来ないなと感じたので、

お世話になっていた営業職の方に、

何か仕事がないかと連絡をとってみました。

 

結局ほぼ同タイミングで双方の面接を受ける事になりました。

 

パ○ナさんの面接は名古屋の開発会社。

ここの面接が大変好感触だったそうで、

名古屋まで旅費を出すから是非会社に来てほしい、

雰囲気を見て良かったらウチに来てほしい、

という二次面接のお誘いを頂きました。

 

評価が高かったせいか、前出の面接官も態度が豹変。

お前よばわりのタメ口から突然さん付で敬語って。

 

 

営業さんの方は、古くから付き合いのある方が

独立して企業したという大阪の開発会社。

力関係が先方<営業さんだったようで、

開発経験0でも無理やりにネジ込んでくれるとアセアセ

 

 

結局、お金の条件で大阪の会社にしました。

名古屋は、最初3ヶ月が使用期間で月10万、

大阪は派遣で単価が30万、とかなり違ったので。

 

この時名古屋に行っていれば、また人生が違った事でしょう。

プログラマとしてのスキルは当然磨かれていたでしょうが、

現時点の収入はきっとずっと低かったと思いますし、

今のようなスタイルで働く事も出来なかったと思います。

(年間9ヶ月労働で生きる、を実践中。これもまたいずれ。)

 

 

ここで私はSQLを初めて学びました。

全く知識0、SQLって単語も聞いたこと無い状態で、

業務アプリの開発要員。

今考えたら、無茶苦茶ですね…よく受け入れてくれたな。

 

 

分厚い本を渡されて、一ヶ月で覚えてきて、

それが最初の課題でした。

当時流行していたチャットルームで、

仲良くしてたプログラマに相談し、

流行のDBのインストーラを借り、独学。

 

 

初めて入った現場では、システム移行要員として、

テーブルデータを新システムへ移行する為のSQLを

来る日も来る日も書いてました。

 

 

IT業界へ踏み込んだ私は、2年目、27歳にして、

ようやく念願のプログラマーとして第一歩を踏み出しました。

 

 

今回は、ここまで。

 

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(3)

IT業界にかかわるまでの話です。
————————–

二十歳になろうかという頃、
一つの転機が訪れました。

しばらく音信不通だった“Y”から久しぶりに連絡があったのです。

曰く「一緒にバンドをやらないか」と。

聞けば、大学の軽音部でバントを組んだものの、
ギター担当がかなりもやもやな方だったようです。

私もちょうどギターを弾く場がなかったので、
それなら一度、とリハスタに集まりました。

2時間程一緒に演奏して、その日のうちに正式メンバーに。
“Y”の紹介でリハスタ店員のバイトにもあり付きました。

それから五年間はバンド三昧の日々。
大学はサークルの部室に顔を出すくらいになってしまい、
挙げ句、四年通った時点で辞めてハートブレイクしまいました。

(しかも色々あって除籍扱いムカムカ

 

これは当時親と相当揉めました(当然ですが)し、

自分自身かなりの後悔ガーンがあったのだと思います。

何度も何度も、10年以上経ってさえ、入学し直す夢を見ました。

 

あまりの申し訳なさに耐えきれなくなって、

30歳くらいの頃に親に全額返済コインたちしました。

それでもまだ、夢に見ます。

 

 

 

 

そんな風になるなんて思いもしないまま。

リハスタの店員をしながら、せっせとライブ活動ギターを続けてました。
いつしかメンバー同士、プロを目指そうと話すようになっていき。
バンドが全てに優先する生活でした。

とても充実した時間でした。

 

気付けば、25歳になってました。

 

バンドも悪くはないものの、特別な存在にはなれないまま。

バイトでその日暮らしの自分に、自分の将来に、

不安を感じはじめ、就職が頭をチラつくようになりました。
 

 

そんなある日。

「就職考えてるんだって?」
と、リハスタの社長に勧められたのが。
そう。
プログラマー
だったんです。

リハスタ店員で一番コンピュータに詳しかった事。

店舗システムについて色々話していた事。

社長とのそれまでの会話から、

こういう方面が得意なのでは?と感じていたそうです。

ただこの頃、私の気持ちは正直に言って
全然プログラマーの方を向いていませんでした。
恥ずかしながら、今後の職業の選択肢に
思い浮かんですらいないという有様でした。

だから、この時の話が無かったら、

私の今は全然違うものだったと思います。

“Y”との繋がりから生まれた社長との繋がり、
それが私の人生を大きく変化させたのです。

社長と話してすぐ、ハローワークへ向かいました。

初めての就職活動でした。

小さな一軒家をオフィスにする、
小さな会社の採用面接を受けました。
落ちました

めげずにすぐハローワークへ行きました。

すぐに次の面接を受けに行きましたが、
それも落ちました

5社くらい落ちると、少し不安が芽生え始めました。

不採用になる可能性(それも普通より高いはずの)を意識出来てませんでした。

無邪気ですね。

何の勉強もして来てないのに、いきなり雇ってくれなんてアセアセ

今考えたら分かりますけど、役に立ちそうに思えないですよね。

 

 

 

そこで、そもそも考え方が間違ってるのかな?
と少し方向性を変えてみました。

正社員が無理なら派遣でもいいじゃないか。

IT系の仕事で定収を得る、が本来の目的だったはず。

 

何でもいいから、まずIT関係といえる仕事を初めてみよう。

初めてみなければ次のステージだって見えるはずがない。

その場に立ってなければチャンスだって巡ってこないだろう。

 

 

新聞の折込広告で目にした、WEBサイト作成者募集。
ホームページのHTMLを手書き出来たのが幸いしたか、

この仕事は即採用になりました。

こうして、中学高校大学その後と回り道をし続けて、

ようやくIT業界への第一歩をようやく踏み出したのです。

 

 

続きはまた、次回に。

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(2)

高校時代の話になります。

 

IT業界を目指す人にとっては何一つ役に立つ事は書いてません。

お役立ち情報を求めて辿り着いてしまった方には敢えて言いましょう、

ごめんなさいと。

 

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外圧に負けて悔しい選択だったものの、無事高校生にはなりました。

普通科の高校生になってしまいましたショボーン

 

 

さあ高校始まるぞーワクワク音譜

 

っていう記憶が微塵もミジンコオバケ程も残っていないので、

やっぱり楽しみでは無かったんだろうなと思います。

失意の方が強かったというか、しょんぼりしてた筈です。

 

 

入学式桜を経ていよいよ新生活、まずはクラス分けですね。

私のクラスは芸術科目選択「音楽」の集まり。

そしてその教室には、以前から気になっていた彼の姿が。

 

 

はっきりと覚えています。

合格発表の帰り、すぐ前を歩いていた彼。

襟足なげーな猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたまと思ってた私。

そしてふと振り向いた彼。

 

彼はとても綺麗な顔立ちをしていました。

念の為ですが、私は男色のケは欠片もありません。

それでも強く印象に残っていたのです。

 

これが、数十年に渡って付き合いの続く友人Yの、最初の印象です。

(今はもう、見る影もないオッサンに成り果てましたが😁)

 

 

 

 

中学生の頃はパソコンの他、アニメやゲームも大好きでした。

そんな私が布施のアニメイトで買った、「吸血鬼ハンターD※1」の下敷き。

これが友人Yとの縁を繋ぐキッカケになりました。

吸血鬼ハンターDの第一作がOVA化された時、
音楽を担当したのが小室哲哉氏でした。
主題歌は勿論、TM NETWORK

そして“Y”と私、二人ともが大好きだったユニットです。

 

 

む。
だった?今も好きです。ゲッワイゲッワイ!

 

 

 

同じものが好きと分かれば、話題もはっきりする訳で。

共通項を見つけた我々は、どんどん仲良くなりました。

その出会いが更に出会いを呼んでいきます。

 

小室哲哉氏に憧れたキーボーディストの“Y”

父親仕込みのギター好き、“O”

BOOWYのベースに憧れていたという、E”

機会があればバンドやってみたかった、“I”

そして歌うのが好きだった、私。

 

 

プログラマーになろうとしていたはずの子供は、

なぜか高校生になって早々に道を違えてしまい、

バンドやろうぜ!!

とか言い出してしまったのです。

 

 

 

ただこの時たった一つだけ誤算がありました。

私は歌が好きなだけでとても下手だった笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

同学年にとても歌の上手いボーカルも居たので、

私はすぐにお払い箱うずまきとなりました。

 

遊びの輪には居るけれど、バンドの話じゃ蚊帳の外。

又しても、いつぞや感じた生暖かい視線がやらかい場所に。

 

 

 

ならばやはり初心に戻って、プログラマーを目指して頑張るべき!

プログラマーに俺はなる!!!

とは考えなかった当時の私。

 

 

 

 

 

ボーカルをクビになった私は、

よろしい。ならば演奏だ。

と考えたのです。何故だったんだろう。

 

 

 

バンドやる訳じゃないし一人で出来る楽器、

という事を考えた覚えはあります。

幸いな事に、家には妹が弾いてたピアノがありました。

 

ピアノがあるからと言って

キーボードをやるとでも思ったか。

 

どういうロジックだったかは不明ですが、とにかく私は、

ギターを弾け(るようになり)たいと思ってしまったのですびっくり

 

 

何故だ!? 

「坊やだからさ」

 

「今度こそやりたい事をやる!!」って反発心だったのかも知れません。

 

そうして高1の夏休み、ギター代を貯める!

と意気込んで、初めてのアルバイトに挑戦しました。

 

 

 

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

それを市内のSHARP工場へ搬送。

それを夏休みが終わるまで、の契約です。

 

初めての仕事で解らない事だらけ。

それ以上に、様々な面で坊やでした。

めちゃくちゃに御迷惑をお掛けして、

それでも優しく指導して頂いて。

申し訳なさ過ぎて、今思い出しても泣けてきますえーん

 

 

そうやって挫けそうになりながら掴んだお金は、

ひと夏でなんと5万円。

 

 

 

ナケナシの5万を握り締めての新学期。

ギターを買いに都会へ向かおうとする私に、

思い掛けず着いて来てくれると言ったのは“Y”でした。

 

 

彼の勧めるまま、あちこちの楽器店を巡り、候補にしたのが

MG-M※2(M2だったかも)と、フェンダージャパンのストラト。

 

 

悩んだ末、ストラトに決定。

 

決め手は「見た目」でした。

とにかくひと目見て心奪われたんですよね。

私見ですが、男子高校生にとって見た目って重要じゃないですか?

 

 

ギターのモデル名とかは覚えてません。

濃い茶色のボディに白ピックガードでした。

 

ST62-115 WALが一番似てますが、

私のギターは金属パーツがシルバーだったので、

下位モデルだったのかも知れません。

上記型番はレア物らしく、値段もお高いようです。

 

 

 

それからは友人にバンドスコア(楽譜)を借りて練習する毎日。

CDに合わせて一曲間違えずに弾けるまで繰り返す。

一応「その曲に聞こえる」ようになったのは半年後くらいでしょうか。

 

ある日の音楽の授業で、複数人で音楽を演奏する課題が出ました。

私は初めたばかりなのか微妙な時期のギターを披露する事になり、

“Y”ではないキーボード奏者の友人“K”と一緒に演奏しました。

考えてみれば、あれが人生初のステージでした。。。緊張したガーン

 

 

これを聞いた“Y”達とは別のバンドメンバーに誘われ、

卒業するまでLINDBERGのコピーバンドをやってました。

私と“K”、あとの3人が女子。十分楽しい毎日でした。

 

高3では学祭ライブにも出て、体育館のステージ上で演奏しました。

緊張で指は動かず、一曲目でいきなり弦が切れ、下手すぎて許せないと酷評され。

これについては、散々だった記憶しかありません。。。

 

 

 

そんなこんなで楽器を手にしてしまった私は、

プログラムそっちのけでギターを弾いて高校生活を終えたのでした。

 

 

 

情報分野の方はどうだったのか、というと。

数学の苦手感もやもやはアップして、常時赤点みたいな状況で。

 

補習の常連になったお陰で数学教師とも仲良くなりました。

大学受験も経済・経営と文系学科、受験科目は英国社。

 

 

話の流れ的にも、SEになれそうな気配は無いですね。

実際、ありませんでした。皆無でした。

プログラマーの道はもう、諦めてました。

この時点では。

 

 

 

 

さてさて。

高校卒業でバンドも解散したので、

次の場を大学の軽音部に求めました。

 

しかしそこはメタリックな重低音が響く、

時はまさに世紀末

 

アンプのツマミが少しズレた程度でも人を殺しそうな先輩たち。

けいおん!みたいな明るさは欠片もありません。

あれは重音部だろ、といった友人の言が忘れられません。

 

 

ここは初心者の来る場所じゃないなと、すぐ退散しました。

そして道端で勧誘された新歓コンパというタダ酒に釣られて、

音楽と関係ない旅行サークルに入り、知らなかった遊びを色々教わり。

 

そろそろ二十歳を迎えようという頃に、一つの転機を迎えたのです。

 

 

といった所で、次回に続きます。

今回は書いてる内に雑な文章になってしまったり、

引用ネタが多くなってしまいました。

 

 

・・・ところで、今はもう下敷きって使わないんですかね?

 

 

※1

ちなみに吸血鬼ハンターDですが、

1983年1月の第一作発表から今なお未完の超大作です。

挿絵はかの天野喜孝画伯。FFが有名でしょうか。

最新刊は2018年4月の46巻(エピソードとしては33)となっています。

 

※2

B’zの松本孝弘氏が初期ライブで使っていたモデルです。
ちなみに後年、素のMG(誰モデルでも無い物)を購入しています。
MGはとても弾きやすくて、かなり長い間使っていました。
最初にMG-Mを買っていたら、ギターの本数は随分減っていたでしょうてへぺろ