25歳にして遅れ馳せながらIT業界に踏み入れた私。
この時、学歴は高卒、資格は普通免許のみ。
業界というか、そもそも社会人を未経験。
とても不安な気持ちだったのを覚えています。
その私の初めての仕事は、いわゆるテスターと呼ばれるものでした。
テスト仕様書に従って、その通りに動かして問題ないか、
ひたすら確認するといった内容。
対象の機器はWebページを表示する端末だったのですが、
仕様通りのWebページが見つからない場合に、
手書きHTMLでテスト用ページを作ってました。
趣味が実益に繋がった初めての瞬間でした。
ちなみにこの仕事の勤務地なんですが。
高校一年の夏、ギターを買うお金の為のバイト。
来る日も来る日も機械製品の梱包作業。
その納入先だったSHARPの工場だったのです。
タダの偶然とは分かっていても、感慨深いものがありました。
この仕事は三ヶ月の期間で募集されていたのですが、
ありがたい事に契約延長の希望を頂きました。
立場も一担当者からチームリーダーに昇格し、
更に仕事にドップリ浸かる事になっていきます。
その後、この現場では2年働きました。
社員でも無いのに、随分こき使われました。
そしてその分、育てても頂きました。
どちらかと言えば、勿論感謝が勝っています。
ここでの2年も、今の私の足場を築いた大切な時間でした。
人を使う難しさ、人を気遣う優しさ、仕事への向き合い方。
同僚や上司、部下、様々な人と関わりながら学んだ日々でした。
この仕事を辞めた理由は、一言で言えば「将来性」です。
機器の仕様を元にテストする項目を検討して実施。
この道の先で、自分は何が出来るようになっていくのだろう、
そういう不安感が芽生えた事がきっかけでした。
ちなみにこの時仕事を辞めた後に、
初めての海外旅行を経験しました。
かなり色々な出来事に出会えたので、
またいつか書いてみたいと思います。
次の仕事は、やっぱりプログラマをやってみたい。
昔のバイト仲間がプログラマで就職していたので、
面接だけでもと口利きをお願いしてみた所、
いきなり社長面接して貰える事になりました。
これはかなり好感触だったのですが、
結局その後連絡がありませんでした。。。
そこで、今までとは違う大手派遣会社の面接へ。
この時の出来事というか面接の内容が、
結構忘れられない出来事なんですが、
面接官の初老の男性に、それはもうボロクソに、
お前に価値ど無いとばかりに貶されました。
曰く。
大学を辞めて何をしてたのか。
2年ぐらいのテスター経験で仕事をしてきたつもりか。
そんな歳まで遊んでいて仕事があると思っているのか。
自分が何か世の中の役に立てるつもりなのか。
面接を受けても不採用に決まってるん。諦めろ。
君なんか紹介するだけ無駄だ。
忘れもしないパソ○テックさん、その節はお世話になりました。
ここはもうアテには出来ないなと感じたので、
お世話になっていた営業職の方に、
何か仕事がないかと連絡をとってみました。
結局ほぼ同タイミングで双方の面接を受ける事になりました。
パ○ナさんの面接は名古屋の開発会社。
ここの面接が大変好感触だったそうで、
名古屋まで旅費を出すから是非会社に来てほしい、
雰囲気を見て良かったらウチに来てほしい、
という二次面接のお誘いを頂きました。
評価が高かったせいか、前出の面接官も態度が豹変。
お前よばわりのタメ口から突然さん付で敬語って。
営業さんの方は、古くから付き合いのある方が
独立して企業したという大阪の開発会社。
力関係が先方<営業さんだったようで、
開発経験0でも無理やりにネジ込んでくれると
結局、お金の条件で大阪の会社にしました。
名古屋は、最初3ヶ月が使用期間で月10万、
大阪は派遣で単価が30万、とかなり違ったので。
この時名古屋に行っていれば、また人生が違った事でしょう。
プログラマとしてのスキルは当然磨かれていたでしょうが、
現時点の収入はきっとずっと低かったと思いますし、
今のようなスタイルで働く事も出来なかったと思います。
(年間9ヶ月労働で生きる、を実践中。これもまたいずれ。)
ここで私はSQLを初めて学びました。
全く知識0、SQLって単語も聞いたこと無い状態で、
業務アプリの開発要員。
今考えたら、無茶苦茶ですね…よく受け入れてくれたな。
分厚い本を渡されて、一ヶ月で覚えてきて、
それが最初の課題でした。
当時流行していたチャットルームで、
仲良くしてたプログラマに相談し、
流行のDBのインストーラを借り、独学。
初めて入った現場では、システム移行要員として、
テーブルデータを新システムへ移行する為のSQLを
来る日も来る日も書いてました。
IT業界へ踏み込んだ私は、2年目、27歳にして、
ようやく念願のプログラマーとして第一歩を踏み出しました。
今回は、ここまで。