フリーランスのインフラSEのメシのタネ

なかなか仕事が忙しく、平日にブログを書く元気が残りませんね。

過去に2年程勤めた現場への復帰なんですが、

みんな見知った顔という気安さか、ジャンジャンバリバリ仕事を振ってくるので…

 

そんな訳で、ちょっとタイトルには語弊があるかも知れないのですが。

各職場でどのようなタスクをこなして、どのようにそれらを捌いてきたのか、

それがどのように受け入れられて、私の評価や価値、

もっとゲスな言葉で言えば単価、になったのか。

逆に言うと。

 

こんな感じで仕事してたらおちんぎんあがりました!

 

そういう体験談を書いてみようかなと思います。

 

 

 

もっとも、個人的に自分の仕事のやり方は随分泥臭くて、

頭の悪さ通りに効率も悪く処理の仕方もチグハグ、

だったりすると思うんですけども。

 

それでも、契約単価はじわじわ上がってます。

というか10年前と比較すると楽勝で倍以上になってます。

 

 

 

派遣社員から、知己を得た営業さんのお陰でSEとなり。

なった当初は30万ちょっとの給料でした。

それが今では確定申告だけでなく消費税も収めるハメになり。。。

この時期はなかなか大変です。

 

今日はちょっとお酒入ってるので、明日からちゃんと書きます。

明日から…!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう先延ばしばかりする人は大成しないとわかってはいるのですが。

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(5)

新しい仕事で忙しくなって、なかなかブログ書く時間が取れません・・・

前回何をどこまで書いたのか忘れてしまう自分がおりまして(笑)

どうやらプログラマになるまで、を書いてたようですので、その続きを。

 

———————————————–

 

27歳で、遂に念願のプログラマデビューを果たしました。

わたしとAさんが派遣社員、社員のSさんがリーダー。

小さなチームで挑んだ新システムへのデータ移行プロジェクトでした。

 

 

毛も生えない初心者だった私は、それはもうアレコレと怒られました。

毎日怒られに職場へ行ってた、と言っても過言ではありません。

Sさんには嫌われてしまったのか、かなり細かい事まであせる

 

提出資料の字が汚い、ファイル名が分かり難い、PCのデスクトップが汚い、

挨拶の声が小さい、印刷資料のフォントサイズが小さい、等々。

ありとあらゆる事で怒られ続けました。

リアルに胃痛を感じるようになって、毎日つらかったです。

ようやく手が届いた憧れなのに、だんだん仕事に行きたくないと思うように。。。

 

 

この状況を変えてくれたのが、Nさんという方でした。

プロジェクトの途中で追加要員として参加したNさんは、

励ましてくれたりSさんを抑えてくれたりと、

仕事面も精神的にもフォローして下さいました。

そのお陰でなんとか最後までやり通せたのだと思います。

 

Sさん、Nさん、Aさん、そしてわたし。

4人のプロジェクトがどのようにして終わったのか、正直覚えていません。

とにかく必死の毎日でした。

せっかく1年半ほど辞めていたタバコにも手を出す始末。

 

 

正直自分には向いてないのかと感じていましたし、

プロジェクト終了と共に、自分のプログラマ人生は終わる、

そんな風に思っていました。

やっぱり担任の言ってた事は間違ってなかったのかな、って。。。

 

そんな私に声を掛けたのが、Sさんの上司だったTさん。

タバコ部屋でのちょっとした立ち話でしたが、

「頑張ってくれてありがとう。これからもよろしく。」

みたいな話でした。

 

 

・・・これから?まだこの生活続くカンジ??死んじゃう???

 

 

と、かなり戸惑った覚えがあります。

 

 

 

プロジェクト現場だったオフィスではSさんの会社、

J社の方々がシステム運用業務に従事されてました。

そちらのチームで引き続き業務に従事して欲しい、

とのご依頼を、後日正式に頂きました。

 

 

Sさんが自社に戻られる(つまりイビ…御指導をもう受けなくてよい)事と、

移行プロジェクトメンバーの仕事ぶりを見て選んだ、というお話を聞いて、

この先も頑張ってみよう!と引き受ける覚悟をしました。

 

 

 

Tさんはとても仕事の出来る方で、この部門のシステムを全て把握している、

ヌシのような存在でした。役職や立場に関係なく、皆が頼っていました。

こんな風になろう!と憧れたものです。

 

実際、今の自分の考え方の多くは、Tさんに影響されていると思います。

システムはただ構築するのではなく根底に思想が必要だ、

いう言葉はとても深く自分の中に根付いています。

 

 

 

Tさんの元では、2年間みっちり修行させて頂きました。

初めての業務プログラム開発、そしてプログラム設計、

開発チームのリーダー、顧客IT部門との折衝。

 

これまでやってきた仕事は、やる事が予め明確になっていました。

これからは自分でたくさんの事を決めなければならない。

この時初めて社会人らしい仕事に触れたのかも知れません。

 

 

 

初めてのプログラム開発では、笑われながらも、

初めてにしてはよく出来てる、頑張ったな、って褒めて頂きました。

データベースに「区分1」なんて日本語を突っ込んだのも、

今となっては懐かしい想い出です・・・てへぺろ

 

 

2年後にこの現場を離れる事になったのは、お客様の事情。

J社さんの組織変更もあって、私も契約を終える事になりました。

 

前出の営業さんからすぐに次の仕事の提案を頂きましたが、

そこはあまり肌に合わず、1年で去りました…

 

 

 

 

結局、幼い頃あんなに憧れていたプログラマーでしたが、

私がプログラマーとして仕事をしたのはこの3年程だけでした。

 

 

短い間の、小さな小さな矜持でしかありませんが。

 

たしかに自分は達成した。

 

そう思える事が自分を支える一つの柱であることは、

疑う余地もありません。

 

 

 

 

プログラマの終わり頃に開発を含めた移行プロジェクトに携わり、

それがきっかけになったのか、移行プロジェクトばかりに関わるように。

 

少しずつプログラム開発からタスクが離れていき、

それと共にインフラ作業の比率が増えていき、

そうして気付けば今。

 

 

いつの間にかインフラSEとして生きています。

 

 

大手ベンダの仕事と関わるようになってからは、

これが生業と自信を持って言える位には稼いで、

それなりに困る事が少ない暮らしを送っています。

 

しんどい事もいっぱいいっぱいいーっぱいありますが、

期待して任せて頂く仕事も増えましたし、

現場の関係者からも嬉しい評価頂いたり。

 

やっぱり、基本的に好きな事だからなんでしょうか。

鬱になる事もなく元気に楽しく働いてますね。

 

 

 

 

 

だから、やっぱりこう思うんです。

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになって、

人生充実してるなーって!!!

 

 

 

– 終わり –

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(4)

25歳にして遅れ馳せながらIT業界に踏み入れた私。

この時、学歴は高卒、資格は普通免許のみ。
業界というか、そもそも社会人を未経験。

 

とても不安な気持ちだったのを覚えています。

 

 

その私の初めての仕事は、いわゆるテスターと呼ばれるものでした。

 

 

テスト仕様書に従って、その通りに動かして問題ないか、

ひたすら確認するといった内容。

 

対象の機器はWebページを表示する端末だったのですが、

仕様通りのWebページが見つからない場合に、

手書きHTMLでテスト用ページを作ってました。

 

趣味が実益に繋がった初めての瞬間でした。

 

 

ちなみにこの仕事の勤務地なんですが。

高校一年の夏、ギターを買うお金の為のバイト。

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

その納入先だったSHARPの工場だったのです。

タダの偶然とは分かっていても、感慨深いものがありました。

 

 

 

この仕事は三ヶ月の期間で募集されていたのですが、

ありがたい事に契約延長の希望を頂きました。

立場も一担当者からチームリーダーに昇格し、

更に仕事にドップリ浸かる事になっていきます。

 

 

その後、この現場では2年働きました。

社員でも無いのに、随分こき使われました。

そしてその分、育てても頂きました。

どちらかと言えば、勿論感謝が勝っています。

ここでの2年も、今の私の足場を築いた大切な時間でした。

 

人を使う難しさ、人を気遣う優しさ、仕事への向き合い方。

同僚や上司、部下、様々な人と関わりながら学んだ日々でした。

 

 

この仕事を辞めた理由は、一言で言えば「将来性」です。

 

機器の仕様を元にテストする項目を検討して実施。

この道の先で、自分は何が出来るようになっていくのだろう、

そういう不安感が芽生えた事がきっかけでした。

 

 

ちなみにこの時仕事を辞めた後に、

初めての海外旅行を経験しました。

かなり色々な出来事に出会えたので、

またいつか書いてみたいと思います。

 

 

次の仕事は、やっぱりプログラマをやってみたい。

昔のバイト仲間がプログラマで就職していたので、

面接だけでもと口利きをお願いしてみた所、

いきなり社長面接して貰える事になりました。

 

これはかなり好感触だったのですが、

結局その後連絡がありませんでした。。。

 

 

そこで、今までとは違う大手派遣会社の面接へ。

 

この時の出来事というか面接の内容が、

結構忘れられない出来事なんですが、

面接官の初老の男性に、それはもうボロクソに、

お前に価値ど無いとばかりに貶されました。

曰く。

 

大学を辞めて何をしてたのか。

2年ぐらいのテスター経験で仕事をしてきたつもりか。
そんな歳まで遊んでいて仕事があると思っているのか。
自分が何か世の中の役に立てるつもりなのか。
面接を受けても不採用に決まってるん。諦めろ。
君なんか紹介するだけ無駄だ。

 

忘れもしないパソ○テックさん、その節はお世話になりました。

 

ここはもうアテには出来ないなと感じたので、

お世話になっていた営業職の方に、

何か仕事がないかと連絡をとってみました。

 

結局ほぼ同タイミングで双方の面接を受ける事になりました。

 

パ○ナさんの面接は名古屋の開発会社。

ここの面接が大変好感触だったそうで、

名古屋まで旅費を出すから是非会社に来てほしい、

雰囲気を見て良かったらウチに来てほしい、

という二次面接のお誘いを頂きました。

 

評価が高かったせいか、前出の面接官も態度が豹変。

お前よばわりのタメ口から突然さん付で敬語って。

 

 

営業さんの方は、古くから付き合いのある方が

独立して企業したという大阪の開発会社。

力関係が先方<営業さんだったようで、

開発経験0でも無理やりにネジ込んでくれるとアセアセ

 

 

結局、お金の条件で大阪の会社にしました。

名古屋は、最初3ヶ月が使用期間で月10万、

大阪は派遣で単価が30万、とかなり違ったので。

 

この時名古屋に行っていれば、また人生が違った事でしょう。

プログラマとしてのスキルは当然磨かれていたでしょうが、

現時点の収入はきっとずっと低かったと思いますし、

今のようなスタイルで働く事も出来なかったと思います。

(年間9ヶ月労働で生きる、を実践中。これもまたいずれ。)

 

 

ここで私はSQLを初めて学びました。

全く知識0、SQLって単語も聞いたこと無い状態で、

業務アプリの開発要員。

今考えたら、無茶苦茶ですね…よく受け入れてくれたな。

 

 

分厚い本を渡されて、一ヶ月で覚えてきて、

それが最初の課題でした。

当時流行していたチャットルームで、

仲良くしてたプログラマに相談し、

流行のDBのインストーラを借り、独学。

 

 

初めて入った現場では、システム移行要員として、

テーブルデータを新システムへ移行する為のSQLを

来る日も来る日も書いてました。

 

 

IT業界へ踏み込んだ私は、2年目、27歳にして、

ようやく念願のプログラマーとして第一歩を踏み出しました。

 

 

今回は、ここまで。

 

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(3)

IT業界にかかわるまでの話です。
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二十歳になろうかという頃、
一つの転機が訪れました。

しばらく音信不通だった“Y”から久しぶりに連絡があったのです。

曰く「一緒にバンドをやらないか」と。

聞けば、大学の軽音部でバントを組んだものの、
ギター担当がかなりもやもやな方だったようです。

私もちょうどギターを弾く場がなかったので、
それなら一度、とリハスタに集まりました。

2時間程一緒に演奏して、その日のうちに正式メンバーに。
“Y”の紹介でリハスタ店員のバイトにもあり付きました。

それから五年間はバンド三昧の日々。
大学はサークルの部室に顔を出すくらいになってしまい、
挙げ句、四年通った時点で辞めてハートブレイクしまいました。

(しかも色々あって除籍扱いムカムカ

 

これは当時親と相当揉めました(当然ですが)し、

自分自身かなりの後悔ガーンがあったのだと思います。

何度も何度も、10年以上経ってさえ、入学し直す夢を見ました。

 

あまりの申し訳なさに耐えきれなくなって、

30歳くらいの頃に親に全額返済コインたちしました。

それでもまだ、夢に見ます。

 

 

 

 

そんな風になるなんて思いもしないまま。

リハスタの店員をしながら、せっせとライブ活動ギターを続けてました。
いつしかメンバー同士、プロを目指そうと話すようになっていき。
バンドが全てに優先する生活でした。

とても充実した時間でした。

 

気付けば、25歳になってました。

 

バンドも悪くはないものの、特別な存在にはなれないまま。

バイトでその日暮らしの自分に、自分の将来に、

不安を感じはじめ、就職が頭をチラつくようになりました。
 

 

そんなある日。

「就職考えてるんだって?」
と、リハスタの社長に勧められたのが。
そう。
プログラマー
だったんです。

リハスタ店員で一番コンピュータに詳しかった事。

店舗システムについて色々話していた事。

社長とのそれまでの会話から、

こういう方面が得意なのでは?と感じていたそうです。

ただこの頃、私の気持ちは正直に言って
全然プログラマーの方を向いていませんでした。
恥ずかしながら、今後の職業の選択肢に
思い浮かんですらいないという有様でした。

だから、この時の話が無かったら、

私の今は全然違うものだったと思います。

“Y”との繋がりから生まれた社長との繋がり、
それが私の人生を大きく変化させたのです。

社長と話してすぐ、ハローワークへ向かいました。

初めての就職活動でした。

小さな一軒家をオフィスにする、
小さな会社の採用面接を受けました。
落ちました

めげずにすぐハローワークへ行きました。

すぐに次の面接を受けに行きましたが、
それも落ちました

5社くらい落ちると、少し不安が芽生え始めました。

不採用になる可能性(それも普通より高いはずの)を意識出来てませんでした。

無邪気ですね。

何の勉強もして来てないのに、いきなり雇ってくれなんてアセアセ

今考えたら分かりますけど、役に立ちそうに思えないですよね。

 

 

 

そこで、そもそも考え方が間違ってるのかな?
と少し方向性を変えてみました。

正社員が無理なら派遣でもいいじゃないか。

IT系の仕事で定収を得る、が本来の目的だったはず。

 

何でもいいから、まずIT関係といえる仕事を初めてみよう。

初めてみなければ次のステージだって見えるはずがない。

その場に立ってなければチャンスだって巡ってこないだろう。

 

 

新聞の折込広告で目にした、WEBサイト作成者募集。
ホームページのHTMLを手書き出来たのが幸いしたか、

この仕事は即採用になりました。

こうして、中学高校大学その後と回り道をし続けて、

ようやくIT業界への第一歩をようやく踏み出したのです。

 

 

続きはまた、次回に。

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(2)

高校時代の話になります。

 

IT業界を目指す人にとっては何一つ役に立つ事は書いてません。

お役立ち情報を求めて辿り着いてしまった方には敢えて言いましょう、

ごめんなさいと。

 

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外圧に負けて悔しい選択だったものの、無事高校生にはなりました。

普通科の高校生になってしまいましたショボーン

 

 

さあ高校始まるぞーワクワク音譜

 

っていう記憶が微塵もミジンコオバケ程も残っていないので、

やっぱり楽しみでは無かったんだろうなと思います。

失意の方が強かったというか、しょんぼりしてた筈です。

 

 

入学式桜を経ていよいよ新生活、まずはクラス分けですね。

私のクラスは芸術科目選択「音楽」の集まり。

そしてその教室には、以前から気になっていた彼の姿が。

 

 

はっきりと覚えています。

合格発表の帰り、すぐ前を歩いていた彼。

襟足なげーな猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたまと思ってた私。

そしてふと振り向いた彼。

 

彼はとても綺麗な顔立ちをしていました。

念の為ですが、私は男色のケは欠片もありません。

それでも強く印象に残っていたのです。

 

これが、数十年に渡って付き合いの続く友人Yの、最初の印象です。

(今はもう、見る影もないオッサンに成り果てましたが😁)

 

 

 

 

中学生の頃はパソコンの他、アニメやゲームも大好きでした。

そんな私が布施のアニメイトで買った、「吸血鬼ハンターD※1」の下敷き。

これが友人Yとの縁を繋ぐキッカケになりました。

吸血鬼ハンターDの第一作がOVA化された時、
音楽を担当したのが小室哲哉氏でした。
主題歌は勿論、TM NETWORK

そして“Y”と私、二人ともが大好きだったユニットです。

 

 

む。
だった?今も好きです。ゲッワイゲッワイ!

 

 

 

同じものが好きと分かれば、話題もはっきりする訳で。

共通項を見つけた我々は、どんどん仲良くなりました。

その出会いが更に出会いを呼んでいきます。

 

小室哲哉氏に憧れたキーボーディストの“Y”

父親仕込みのギター好き、“O”

BOOWYのベースに憧れていたという、E”

機会があればバンドやってみたかった、“I”

そして歌うのが好きだった、私。

 

 

プログラマーになろうとしていたはずの子供は、

なぜか高校生になって早々に道を違えてしまい、

バンドやろうぜ!!

とか言い出してしまったのです。

 

 

 

ただこの時たった一つだけ誤算がありました。

私は歌が好きなだけでとても下手だった笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

同学年にとても歌の上手いボーカルも居たので、

私はすぐにお払い箱うずまきとなりました。

 

遊びの輪には居るけれど、バンドの話じゃ蚊帳の外。

又しても、いつぞや感じた生暖かい視線がやらかい場所に。

 

 

 

ならばやはり初心に戻って、プログラマーを目指して頑張るべき!

プログラマーに俺はなる!!!

とは考えなかった当時の私。

 

 

 

 

 

ボーカルをクビになった私は、

よろしい。ならば演奏だ。

と考えたのです。何故だったんだろう。

 

 

 

バンドやる訳じゃないし一人で出来る楽器、

という事を考えた覚えはあります。

幸いな事に、家には妹が弾いてたピアノがありました。

 

ピアノがあるからと言って

キーボードをやるとでも思ったか。

 

どういうロジックだったかは不明ですが、とにかく私は、

ギターを弾け(るようになり)たいと思ってしまったのですびっくり

 

 

何故だ!? 

「坊やだからさ」

 

「今度こそやりたい事をやる!!」って反発心だったのかも知れません。

 

そうして高1の夏休み、ギター代を貯める!

と意気込んで、初めてのアルバイトに挑戦しました。

 

 

 

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

それを市内のSHARP工場へ搬送。

それを夏休みが終わるまで、の契約です。

 

初めての仕事で解らない事だらけ。

それ以上に、様々な面で坊やでした。

めちゃくちゃに御迷惑をお掛けして、

それでも優しく指導して頂いて。

申し訳なさ過ぎて、今思い出しても泣けてきますえーん

 

 

そうやって挫けそうになりながら掴んだお金は、

ひと夏でなんと5万円。

 

 

 

ナケナシの5万を握り締めての新学期。

ギターを買いに都会へ向かおうとする私に、

思い掛けず着いて来てくれると言ったのは“Y”でした。

 

 

彼の勧めるまま、あちこちの楽器店を巡り、候補にしたのが

MG-M※2(M2だったかも)と、フェンダージャパンのストラト。

 

 

悩んだ末、ストラトに決定。

 

決め手は「見た目」でした。

とにかくひと目見て心奪われたんですよね。

私見ですが、男子高校生にとって見た目って重要じゃないですか?

 

 

ギターのモデル名とかは覚えてません。

濃い茶色のボディに白ピックガードでした。

 

ST62-115 WALが一番似てますが、

私のギターは金属パーツがシルバーだったので、

下位モデルだったのかも知れません。

上記型番はレア物らしく、値段もお高いようです。

 

 

 

それからは友人にバンドスコア(楽譜)を借りて練習する毎日。

CDに合わせて一曲間違えずに弾けるまで繰り返す。

一応「その曲に聞こえる」ようになったのは半年後くらいでしょうか。

 

ある日の音楽の授業で、複数人で音楽を演奏する課題が出ました。

私は初めたばかりなのか微妙な時期のギターを披露する事になり、

“Y”ではないキーボード奏者の友人“K”と一緒に演奏しました。

考えてみれば、あれが人生初のステージでした。。。緊張したガーン

 

 

これを聞いた“Y”達とは別のバンドメンバーに誘われ、

卒業するまでLINDBERGのコピーバンドをやってました。

私と“K”、あとの3人が女子。十分楽しい毎日でした。

 

高3では学祭ライブにも出て、体育館のステージ上で演奏しました。

緊張で指は動かず、一曲目でいきなり弦が切れ、下手すぎて許せないと酷評され。

これについては、散々だった記憶しかありません。。。

 

 

 

そんなこんなで楽器を手にしてしまった私は、

プログラムそっちのけでギターを弾いて高校生活を終えたのでした。

 

 

 

情報分野の方はどうだったのか、というと。

数学の苦手感もやもやはアップして、常時赤点みたいな状況で。

 

補習の常連になったお陰で数学教師とも仲良くなりました。

大学受験も経済・経営と文系学科、受験科目は英国社。

 

 

話の流れ的にも、SEになれそうな気配は無いですね。

実際、ありませんでした。皆無でした。

プログラマーの道はもう、諦めてました。

この時点では。

 

 

 

 

さてさて。

高校卒業でバンドも解散したので、

次の場を大学の軽音部に求めました。

 

しかしそこはメタリックな重低音が響く、

時はまさに世紀末

 

アンプのツマミが少しズレた程度でも人を殺しそうな先輩たち。

けいおん!みたいな明るさは欠片もありません。

あれは重音部だろ、といった友人の言が忘れられません。

 

 

ここは初心者の来る場所じゃないなと、すぐ退散しました。

そして道端で勧誘された新歓コンパというタダ酒に釣られて、

音楽と関係ない旅行サークルに入り、知らなかった遊びを色々教わり。

 

そろそろ二十歳を迎えようという頃に、一つの転機を迎えたのです。

 

 

といった所で、次回に続きます。

今回は書いてる内に雑な文章になってしまったり、

引用ネタが多くなってしまいました。

 

 

・・・ところで、今はもう下敷きって使わないんですかね?

 

 

※1

ちなみに吸血鬼ハンターDですが、

1983年1月の第一作発表から今なお未完の超大作です。

挿絵はかの天野喜孝画伯。FFが有名でしょうか。

最新刊は2018年4月の46巻(エピソードとしては33)となっています。

 

※2

B’zの松本孝弘氏が初期ライブで使っていたモデルです。
ちなみに後年、素のMG(誰モデルでも無い物)を購入しています。
MGはとても弾きやすくて、かなり長い間使っていました。
最初にMG-Mを買っていたら、ギターの本数は随分減っていたでしょうてへぺろ

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(1)

プログラマになりたい乙女のトキメキ、と思ったのは小学生の頃でした。

友人の家にあったPC-66、そしてベーマガ※1

衝撃を受けた、という程の記憶はないんですけど。

プログラムって物がなんだかカッコよく見えました。

 

 

当時はどれほど高価※2な物かも知らず、

ただパソコン欲しいって言ってました。

「おばあちゃんパソコン買ってラブラブ

「はい、グラスホッパー車

「イヤンそれラジコ~ンチュー

 

・・・とあるクリスマスの懐かしい記憶です。

 

 

 

初めてパソコンに触れたのは中学生。

父親が仕事用に買ったPC-98でした。

5インチのペラッペラなフロッピーディスク手裏剣

ガッチョンガッチョンむかっやかましい2台のドライブ、

電源投入時のピポッ右上矢印てBEEP音。

・・・こうやって書いてるだけでも懐かしいですね。

 

 

といっても大した事をしてたって訳でもなく、

ベーマガ掲載プログラムを入力して動かしたり、
たまに自分のオリジナルでプログラムを作ったり。

プログラムの基本のキはこの頃学びました。

 

友達に借りたゲームで遊んだりもしましたね。

チート用ツールみたいなものは当時もあって、

ゲームのセーブデータを弄ったり。

コンピュータのメモリとアドレス、バイト表現、16進等、

仕組の部分もそうやって学んだ気がします。

 

 

今の自分に通じる基礎はほぼこの頃で学びました。

とにかく全てが楽しくて仕方なかったです。

他人のプログラムを見ながら、

ここをこう変えたらどうなるの??

あれ、なんかヘンになっちゃたもやもや

ここでこうして・・・ここまでOKかガーン

じゃあこれ?おおお上手くいったー!お祝い

みたいな感じで。

 

デバッグは遊びの延長線上にあって、

そしてそのまま学びになってました。

 

 

普段がそんなですから、担任にも言う訳ですよ。

「将来はプログラマーになりたい」って。

高校受験の時には、高専に行きたいって。

(当時既に、高専には情報科がありました)

 

そんな私ですが、数学の点数は非常に低く。

どうにも苦手だったんですねえ・・・

(得意科目は国社英。文系SEの典型ドクロ

 

 

なので担任は必死のパッチで阻止してくる訳です。

「その数学の点じゃ無理」

「苦手科目の進学は将来大変」

「高専は理系短大扱いで就職厳しい」

※1980年代の中学教師の認識です
 

これは三者面談なんかで担任とかなりやり合いました。

自分の人生、他人に口出しされる謂れはない!

とかって。

 

 

 

最終的に、担任の方から

「別の私学も公立も受けるなら高専受けてもイイヨOK

って(なんで上からなのかはともかく)妥協案が出て、

それに両親が同意してしまったので。

バーター条件の元、高校受験に臨みました。

 

滑り止めの私立電子科、本命の高専、

金銭的理由から公立普通科、のラインナップです。

 

 

私立は滑り止めというのもあって無事合格。

本命の高専は思ったより試験の手応えもよく、

同じ中学から受けた5人との答え合わせもバッチリ。

沢山の人の期待に応え、見事に私だけ不合格合格でした。

 

合格した4人の生暖かい視線で心のやらかい場所が痛かったです。

 

 

この時点で自分の中では私学進学が決定してました。

私学進学の希望を伝えても、公立は受けろと押す担任。

行く気もないのに受験とか時間も金も勿体無い、と私。

担任がどこがオススメだ、ここの学校もイイ、などと

あれこれ勧めてくるけど、全部聞き流してました爆  笑

 

 

最終的には、親が担任に説得されてしまって、

不承不承ながら受験する事になってしまいました。

 

受験後、前年より倍率がグンと上がった事が判明し、

担任にめっちゃくちゃ謝られたのですが、

そんなものこっちからすればシメシメですよ。

ラッキー以外の何者でもねぇな!と思ってました。

 

そして卒業式を経て合格発表へ。

沢山の人の期待に応え、見事に合格ガックリでした…。

 

ま、合格したトコロで俺はどうせ私立に行くんだし。

 

 

 

 

 

 

 

そう思っていた時期が私にもありました。

 

お金の事で泣き付かれては、

養われる身では抗う術もありません。

周囲からの強固な説得というか脅迫、

それらに負けて公立へ進学しました。

 

 

もの凄く悔しかった事を覚えています。

大人が勝手に決めた答えを押し付けられた事。

それに説得されてしまった自分に対する失望。

 

 

 

今冷静になって考えてみれば、試験で手を抜けばよかった。

それだけの事だったんですよね。。。

まだまだ、子供でした。

 

 

この後高校、大学を経て、社会人になっていきますが、

続きはまた後日。

 

 

※1 電波新聞社のマイコンベーシックマガジン。パソコンではなくマイコン

※2 NECの名機PC-88の標準価格は228,00円。当時の大卒初任給は13万程

 

IPA資格試験対策 午後の部(時間短縮編その2)

時間短縮編の続きです。

 

■問題選択のコツ

出来る限り試験時間は解答のために使いたいですし、

設問は5~10分程度を目安に選択したいものです。

ここでは、いくつかの着眼点についてご説明したいと思います。

 

・まずは問題文冒頭

〇〇の□□に関する(~中略~)答えよ

この部分から、問題の方向性がある程度読み取れます。

 

私は○○の部分より□□の部分に着目しています。

問題文に全く書かれていない事は出題されないので、

しっかり問題文を読めば○○の部分はなんとかなると思います。

 

□□の部分が実際に経験した事のある作業だったり、

常日頃から頻繁に使う知識であれば、問題文の意図が

かなり把握しやすくなると思います。

 

 

・設問から傾向把握

設問で問われる事・問われ方が重要です。

その為、問題文よりも先に設問を確認しています。

 

要求される解答には選択式、単語や文章の記述の他、

様々なパターンがあります。

 

単語記述は、一番難易度が高いように思います。

大抵の場合正答が一つで、部分点が期待しにくいからです。

迷った時は、単語記述の少ない物を選ぶようにしています。

 

また、これは個人的な感覚なのですが、

設問が多いものは難易度が低めな場合が多いと感じます。

 

 

■問題文読解のコツ

問題文は長文の為、特に午後IIの問題は

読むだけで疲れてしまいます。

その為、全部を一気に読まないようにしています。

一度で読み切っても覚えておける訳もなく、

解答の際にまた読み返す事になります。

 

設問は、「〔○○〕について答えよ」のように

問題文の一部の箇所と紐付いている事が多いので、

解答の際に対象範囲を読み込むようにしています。

 

前述の問題選択と繋がる事なのですが、

私は最初に設問を見るので、

問題文を読み込むのは最後です。

 

①設問をサッと見て

②問題を決めたら、サッと読んで

③設問をもう一度しっかり読んで、

④問題文をじっくり読む

 

という流れです。

 

一見②があまり意味が無さそうかも知れませんが、

このタイミングで「数字、特定の単語」と

「決まりごと・ルール」に着目して

問題文に下線や○囲みを入れています。

解答の上で前提条件として考慮が必要になる為です。

 

設問から不要と思われる箇所は読み飛ばす、

というのも一つのやり方だとは思うのですが、

どこにヒントが隠れているかわからないので、

選択した問題は全てに目を通すようにしています。

 

 

 

長文問題を解く為に必要な「集中力」は、

過去問の繰り返しで鍛えておきたい所です。

問題自体になれてきたら、問題選択まで含めて

本番通りの時間割で模擬試験をすべきだと思います。

 

 

IPA資格試験対策 午後の部(時間短縮編その1)

前回ネットワークスペシャリストの試験について書いたんですが、

自分でも書いてる通りネスペの試験は秋季のみなので、

今役立つ情報では無かっただろうなと反省しましたあせる

 

今回は、午後試験全般に関する事、

試験中の時間短縮をテーマにしてみようと思います。

 

 

■午後試験の概要

午後Iの試験時間は90分、午後IIは120分です。

午後Iは3問中2問を選択、午後IIは2問中1問選択し、回答します。

 

 

■時間が足りない

午後試験の問題文はとても長い文章です。

午後IIの設問なら、読むだけで30分程度必要な場合もあります。

全ての問題に解答し、最も自信があるものを選択

それができればベストですが、時間の関係上

実際にそれを出来る方はそうは居ないと思います。

 

時間が無ければ、大抵の人は焦るものです。

そして焦りは早とちりやうっかりミスなどの元になり、

実力を発揮できず不合格という残念な結果を招きかねません。

努力を十分活かす為にも、試験中の時間短縮が必要なのです。

 

 

■時間短縮のポイント

午後試験の時間中に費やす時間のうち、

短縮できそうだと感じたのは以下のポイントでした。

  1. 解答文を○○文字以内に抑える為の推敲
  2. 問題文の内容理解
  3. 問題の選択

書いては消しての繰り返しになる1や、そもそも長文相手の2、

そしてどの問題を選択すれば一番高い点が取れるか悩みまくる3。

 

いずれも恐ろしい勢いで時間を奪っていきます。

スポーツやゲーム中、面白い映画を観ている間、

気がつけばあっという間に時間が過ぎている、あの感覚です。

 

 

■解答文記述のコツ

文章を作るコツの一つは、沢山書く事です。

前回ネスペの午後問題でも述べた「書き方」は、

普通に過去問をやっていれば、慣れてくるはずです。

 

不要な修飾語を省く事で文章がスッキリしますし、

単語や表現を問題文中と揃える事もポイントです。

 

 

また、解答はいきなり解答用紙に書かず下書きするべきです。

いくら内容が正解でも、

採点者に読めなければ無意味ですから。

 

また、解答文は「指示された文字数の7割」が

必要文字数の目安と言われています。

文章を削って足して文字数を数える、

というのは存外時間が掛かる為、

私は毎回、10文字1行で下書きをします。

下書きの推敲には消しゴムは使わず、

一行まるごとこういう風に字消線で消してます。

 

 

最後に、

空欄には絶対しない事

そんな勿体ない事をする位なら、

思いつきでも本文抜粋でもよいので、

それっぽい事を書いて足掻きましょう。

 

 

長くなってしまったので、ここで一旦分けようと思います。

 

ネットワークスペシャリスト試験対策 午後の部

IPAのサイトで過去問と解答例が公開されてますので、

まずはストレートに問題にぶつかってみて、自分の今を知る。

試験対策はここから始めました。

 

吹くぐらい間違えてました口笛

 

 

何か学ぶには教科書が必要か、と思って検索した結果、

ネスペにはどうやら定番的な参考書があるようでした。

それがこちら、ネスペの剣シリーズ!!

シリーズの26からは「ネスペの剣」ではなく
「ネスペ ○(一文字)」の名前になっているようですね。
これを、過去3年分くらい買いました。 ※ネスペは秋季試験のみ

問題の詳しい解説、類似ケースを見立てた例題、そして
”高度試験午後全般のキモ”とも言える部分
「論述問題の解答の書き方」
の説明が素晴らしかったです。

 

問われ方、何を問われているのか、を見極めて、

何を答えて欲しいのか、を念頭に文章を書く。

外してはならない言葉やポイントなど、

書き方を意識するだけで相当点数が変わります。

実際、情報処理安全確保支援士の受験時は、

午後試験の対策はほぼせずに合格できました。

 

 

そしてネスペの剣シリーズと双璧をなすのがこちら。

ネスペ受験者の概ねは何かの形でネットワークに触れ、

基本的なネットワークの事は理解済だろうと思います。

知識としては「分かってる」って部分であっても、

問いと解になると上手く表現できない。

そういった部分の補完としてとても役立ちました。

 

マスタリングTCP/IPもオススメ書籍としてよく挙げられていますが、

あれは「ネットワークについて勉強したい人」が読む本であって

「ネスペの試験に合格する為に」読む本ではないと思います。

もちろん、中身は名著です。

 

それに、基礎知識を掘り下げるだけなら、本を買わずとも

インターネット上で様々な情報が見つけられると思います。

中でも私がとてもお世話になっているサイトがこちら。

 

 ■ ネスペイージス

 

 

 ■ 3分間NetWorking

 

3分ネットはネットワークに興味を持ち始めた頃によく見ていました。

ネスペイージスは実務でもとても参考にさせて貰っています。

 

 

最後に、試験対策本ではありませんが、

個人的に役立ったと思っている一冊を御紹介します。

これは、実際のトラブル事例とその解決プロセスの解説本です。

設計>実装>問題>解決 の流れ、そしてどうしておけば良かったか、
という今後意識すべき事が論じられています。
上記の流れの部分が午後の試験問題のパターンと近いのです。
問題を紐解いていく際のポイント、冷静に考えれば解る「まさか」、
そういった着眼点を養わせてくれる良書だと思います。
実務でトラブった時の調査パターンとして、今でも現役で役立ってくれています。
以上、ネスペの午後試験対策、でした。

英語が話せ(るようになり)たい!

英語で道を尋ねられた時、どんなリアクションをとりますか?

教える。無視。逃げる。ごめんなさいする。

色々あると思います。

 

実は私、結構教えてあげられる方なんです。

ゆっくりなら言ってる事も結構分かります。

 

ただ、教えてあげたいのに

(今言いたい事は)英語でなんて言うんだろう!?

って部分でいつも困ります。

説明の言葉が思いつかない…もういっそ連れていくか??

 

それも何て言うのやらあせる

 

スマホが当たり前の昨今ですから、

ちょっと翻訳すれば済む話ですけどね。

 

 

「海外旅行したいな」ってふと思った時にも、

日本でツアー組むと高い!現地だと言葉が不安!

で迷ってるうちにタイミングを逃したり。

 

やっぱり英語話せたい!!!ですよね。

 

という訳で、今回は英会話習得について。

 

 

かなり昔の話ですが、海外に一週間程一人旅した際、

自分含め全員が英語で会話してる

って夢を見たことがあります。

一週間英会話漬けの生活を送るだけでこれです。

 

同じくその旅先で、小さな子の流暢な英語を耳にして、

ガイドさんに聞いたんですね。子供はみんな英語が話せるのか?って。

観光立国のその国では、将来の仕事の為に子供の頃から英語を習うそうです。

子供の英語学習の為に、親も家庭内で英語を話したりするそうです。

 

 

これはもう、英会話の勉強方法って言ったら

英語を聞き、話し、考え、慣れる

に尽きるなって思いましたね。

 

 

考えてみれば、赤ん坊が母国語をマスターするのも、

0~2歳くらいの間に繰り返し聞いた言葉と、

絵本を指差し繰り返す「これはなーに?」が基礎ですよね。

 

 

それが理由になったかどうかは知りませんが、

英語教育もどんどん低年齢化が進んでいて、

今年度からは小学校3年生も対象になるそうです。

早いですね。

 

3,4年生は英語に親しむ、を目的としたカリキュラムのようですが、

さて実際の現場はどうなるのでしょうか。

今まで通りの所謂「おべんきょう」から離れられるのか。

 

実は私、子供の頃に何かの縁で英語を教えてもらってました。

小学校高学年くらいからは英会話の塾にも行ってました。

両方合わせると、4年くらいの期間だったと思います。

けど、結局話せるようにはなりませんでした。

だって、普段はずっと日本語を聞いて、話して、考えてましたから。
結局、ほんのちょっと触れたくらいでは大して意味がなくて、

どっぷり英語漬けじゃないと会話は無理なんじゃないかと。

英語の絵本も数冊買いましたが、文章を読むと訳してしまうのでダメですね。

会話は会話でしか身に付かないのかも知れません。

 

 

 

ただ、会話でなくても繰り返し英語を聞く事には十分意味があります。

話せるようにはなりませんが、聞けるようにはなります。

きっと。(個人差もあるので)

 

Voice of Americaという放送をご存知でしょうか。

ボイス・オブ・アメリカ

ボイス・オブ・アメリカ(英語: Voice of America, 略称:VOA)は、アメリカ合衆国政府が運営する国営放送である。

(中略)

ボイス・オブ・アメリカは、英語を母語としない人々に向け、平易な語彙と文法を用いた上で、通常の3分の2の速さでアナウンサーが語るスペシャル・イングリッシュという英語放送がある。

引用にもある「スペシャル・イングリッシュ」のニュースは、本当にゆっくりで解かりやすいです。

昔はニュースのMP3ファイルがダウンロード出来たので、iPodに入れていたのですが、

現在のサイトでは無理なのでしょうか…リンクが見つかりませんでした。

 

ですが、公式サイトYoutubeチャンネルにて動画が公開されています。

Let’s learn English」は、会話スピードは結構早いのですが、

字幕や繰り返しなど学習向けの内容になっています。

Read, Listen & Learn」は、かなりゆっくり話してくれる音声動画と、

話している内容のテキストがセットになっています。

 

最後に、VOAのサンプルを一つ御紹介しておきます。