継続は力なり、の実証結果

このブログ、アカウントを作ったのは何年も前なんですが、

2019年の12月に内容を刷新して今の内容で書き始めました。

ちょうど大きな契約を終えた後で半年ほど休養していた時期に、

独立した友人(Web関連)の勧めをうけて始めたものです。

 

 

もともとのコンセプトはこういう感じだったみたいです。

確かに最初はそうだったかも知れません。

 

 

 

最初の三ヶ月の記事投稿数は18。2020年2月から常駐案件に入ったのですが、

1月は時間があったのでなるべくアウトプットしようと考えていました。

 

で、その期間(2019/12~2020/2)のアクセス情報。クリック数1。

なんだかナンバー1みたいで気持ちいいですね。

当初のコンセプトは「ブログでお金を稼ぐ」だったので、アフィリエイトリンクなんかも貼られてます。

踏まれた事はありません。まあナンバー1ですから仕方ない。

 

 

 

仕事を再開したのでブログは毎週末に書くようにしよう、と自分ルールを決めて取り組みました。

「その情報が欲しい人にとっては入り口がたくさんあった方がいいから、世の中に同じこと書いてるサイトがたくさんあったとしても気にせず書けばいい」

これはブログを書くキッカケになった友人の言葉なのですが、まあそういう考え方もあるかな?と、独自性とか集客みたいな事は考えない事にしました。
継続性を考えると書きやすいテーマの方がいいですし、どうせ書くなら何か存在する意味のあるものになると嬉しい。

そもそもこんな誰もみないブログで金稼ぐとか烏滸がましいにも程がある。何よりそういう「何でもカネカネ」みたいなサイトや人は自分が嫌いですし。

 

そういう訳で、仕事で分からなかった事や興味があった事、それらについて調べた技術的情報をメインに書くようになりました。
 

 

 

3月~5月の投稿数は14。もっとペース落ちてた気がしますが、意外とそうでもないですね。

アクセス情報を最初3ヶ月と比較してみると。。。

多少増えました。単純に記事数が増えるだけでアクセス数は増加しますね。

「入り口はたくさんあった方がいい」が自サイトに適用された形でしょうか。

 

 

 

6~8月の投稿数は18。結構真面目にコツコツ書いていたみたいですね。偉い(笑)。

この期間と、それまでの合算との比較。

明らかに増えた感じがありましたが、正直理由は分かりません。突然ポンと増え始めた印象です。

GoogleSearchConsoleも正直見方とかよくわかっていなくて、ただ眺めてるだけです…

 

 

9~10月の投稿数は7。毎週投稿に穴が空き始めてしまいました。

仕事が忙しさでちょっと疲れていたり、理由はないでもないですが、自分ルールが守れていないのは悔しいですね。

なんでもそうですが、最終的な審判は自分ですからね。宮崎駿氏の言葉を思い出します。

 

 

 

アクセス情報の方はというと、突然増え始めた数字はその勢いを強めてきました。

クリック数は2019/12~2020/8月までの合計を、2ヶ月で数倍上回りました。

平均CTRは同レベルですが、表示回数が6倍くらいになっているのが結果に現れたようです。

で、表示回数がなぜ増えたかというと平均掲載順位の上昇がその要因みたいです。

 

 

 

 

全期間を通してみるとこんな感じです。7月辺りからジワリときて、9月辺りでドーンと増え始めました。

グラフの谷は恐らく土日です。ブログの日別アクセスカウンタを見ていて思うのが、いつも平日に増えて土日はストンと落ちるなあと。

これには恐らくなのですが多分間違っていないと思う仮説があって。

「みんな仕事の中でググって調べている」

という事なんだと思うのですよね。私がそういう風に調べた事を書いているのですから。

 

 

 

約1年続けてみて、特に何を意識するでもなく、淡々と書ける事を書いてきたブログですが、情報を求める人に多少なり届いているのであれば嬉しいですね。

もうお金を儲けようという考えはサラサラなくて、ただ情報共有出来ればいいと思っています。

(そもそも本業でそれなりに貰っているので5年やそこら仕事が無くても困りませんし)

 

 

無知な高校生を騙す楽器屋、みたいな金儲けが横行しているなと(昨夜も)感じましたが、お金が稼げるから仕事だ、とは思えないんですよね。

誰かが求める事を、出来る人が提供する。自分では出来ないからやれる人にお願いしたい。

要望への応答に対する対価で無ければ仕事とは呼べないんじゃないかと。

大昔から、人の欲というのはそういう綺麗事の枠には収まっていない訳ですけど…

一体何の為に生きるのか

久しぶりに旅行に行きたい気分なのですが、

まだまだコロナ禍は続きそうな状況ですし、

しばらくは難しそうですね。

 

 

そんな気持ちで過去の旅行写真を眺めていたら、

料理の写真を撮ってるけどお店の名前が分からない!

というものが結構沢山ありました。

 

そんな訳で今週の記事は、

あの店お名前なんでした? ~思い出したい美味い店~

のコーナーにしてみたいと思います。

 

 

■2017年4月20日@石垣島

八重山料理ゆらてぃく

4泊5日の旅程で何度か沖縄そばを食べたんですが、初日に食べたものが一番でした。

 

 

■2016年11月11日@成田山

駿河屋

 

銚子港を目指した旅行の際、宿を成田で取りました。

せっかくなので成田山にも参ってみようと足を向けると、参道に満ちる香り!

堪らず飛び込んだのが、看板がどっしりしてて風格のあったこちらのお店。

程よい脂加減でとても美味しかったです。

 

 

 

■2016年7月18日@道後

大黒屋 道後店

愛媛の名物、鯛めしです。鯛めしには二種類あって、

「宇和島鯛めし」はご飯に鯛の刺身と生卵入りのタレ、

「松山鯛めし」は鯛と一緒に炊き込むスタイルらしいです。

勿論両方頂きましたが、私は松山スタイルの方が好みでした。

 

 

■2015年7月19日@出雲

Mr.Beef

人生が変わったお店の一つ。

(シャトーブリアンと特上フィレ100gずつ注文したので2皿映ってます)

それまで”美味しいお肉”といえば、口にした瞬間とろけて無くなるような、

甘みさえ感じるくらいの脂がたっぷりのものだと思ってました。

赤身のステーキなんて、まず固くてダメだって。

それがこちらでステーキを頂いてからは、赤身の肉ばかり好んで食べてます。

お陰で、脂がしつこくて量が食べられないなんて事もありません。

 

※公式サイトが無かった為、レビューサイトのリンクを張ってます

 

 

■2014年4月21日@男鹿

なまはげ御殿 ニュー畠兼

夕日が見たくてレンタカーぶっ飛ばして入道崎に向かいました。

お土産屋兼お食事処での一品。

十分美味かったのですが、東北まで来たらもっと上があるはず!と思い、

最終的に青森の公設市場でリベンジしました。

(具とご飯を個別に購入して自分で盛る形式なので、ビジュアルドクロはご容赦を)

 

 

 

これらの他に一軒、どうしても見つけられないお店があって、

探してる間に今日が一日終わってしまいました・・・!

穴子の刺し身を初めて食べたんですが、

身がすごいコリコリしてるんですね。

煮たり焼いたり揚げたり、加熱したものは柔らかいのに。。。驚きでした。

 

 

 

記事タイトルの話になりますが、私自身なんのためかと聞かれたら

美味しいものを食べる為に生きてます、って答えてます。

美味しいもの食べると、ほんと顔も緩むし幸せな気分になります。

 

と言っても、世界各国の美味珍味を求めて駆けずり回るというような、

そこまで熱が入ったものでもありませんが。

 

それでもやっぱり旅先では、

「その土地ならではの美味しいものが食べたい!」

という気分になります。

 

最近はインターネットで検索すれば沢山お店の情報が見つかりますが、

如何に高評価なお店であっても、自分の好みに合うとは限りません。

実際何度も失敗しました。

結局飛び込んで自分で試すしかないので、やっぱりたくさん失敗しますが(笑)

 

 

なんにせよ、仕事の頑張り甲斐が持てるのは幸せな事!

 

HDDが満杯!フォルダごとの使用量確認方法

Windowsサーバ使ってるとよく思いませんか?

「UNIX系シェル使えたらな」って。

 

WSL2がリリースされて、随分ハードルが下がったとは思いますが、

どこの会社でも「使ってオッケーOK」かと言えばNGの場合も多々あるでしょう。

・・・あれ、うちの会社だけですか?

 

 

ともあれそういう事で、表題の件をWSLを使わずに何とかする方法を調べてみました。

 

■コマンドプロンプトから

結論から言えば、私には出来ませんでした。

色々ガチャガチャやれば出来なくもないでしょうけど。。。

 

■とっとと諦めて、インストールしなくていいツールを探す

こんな事に時間掛けても仕方ないので、.exe単体で動いてくれるツールを探しました。

いくつか試した中で一番しっくりきたのがこちら。

 

DiskInfo

ディスクの使用状況を表示する(作者:らくちん さん)

https://www.vector.co.jp/soft/winnt/util/se475617.html

 

こういう感じでディレクトリ毎の容量を調べてくれます。

勿論この画面内でフォルダ階層を降りていけば、それぞれの状況が確認できます。

使用量だけでなく使用率も表示されるし、列ソートも可能。

結果のエクスポートや保存、前回結果との比較など、色々便利機能が揃ってます。

 

これなら自端末で(ややこしい手続き抜きに)使えるし、

ネットワークドライブ接続可能な機器なら、手元のPCで状態確認出来ますし。

サーバ側で実行しなくてもいいのはありがたい。心理的ハードルが随分下がります…

 

自端末に溜まったゴミファイルの掃除にも使ってみました。

ディスク増設を考えてたんですが、随分スリムになってくれたので当面不要そう。

通販あれこれ凄まじく遅い状況ですし…

 

 

ともあれ、フォルダ容量の調査で困ったら是非お試し下さい。

超絶オススメツールです!

 

 

 

 

 

 

 

ちなみにコマンドプロンプトからのチャレンジですが。

ざっくりそれっぽい事であれば、例えばこんな

> for /F “tokens=1-4” %i in (‘dir /ad /s C:\inetpub’) do echo %l %i %j

ラベルは ドライブ C
です ボリューム シリアル番号は
 C:\inetpub のディレクトリ
. 2020/05/11 23:34
.. 2020/05/11 23:34
custerr 2020/05/11 23:34
history 2020/05/11 23:50
logs 2020/05/11 23:34
temp 2020/05/11 23:34
wwwroot 2020/05/12 10:09
バイト 0 個のファイル
 C:\inetpub\custerr のディレクトリ

ゴミがいっぱいついてくるので使い物になりませんね。わかってました。

 

 

forfilesコマンドではどうかなと思いましたが、

そもそもディレクトリ容量って0ですね。計算しないとだ~。

> forfiles -s -p C:\inetpub -c “cmd /c if @isdir==TRUE echo @PATH @fsize @fdate @ftime”

“C:\inetpub\custerr” 0 2020/05/11 23:34:18
“C:\inetpub\history” 0 2020/05/11 23:50:22
“C:\inetpub\logs” 0 2020/05/11 23:34:18
“C:\inetpub\temp” 0 2020/05/11 23:34:25
“C:\inetpub\wwwroot” 0 2020/05/12 10:09:53
“C:\inetpub\custerr\ja-JP” 0 2020/05/11 23:34:18
エラー: 次へのアクセスが拒否されました: “C:\inetpub\history\”.

 

そもそもこれらみんな、du使えたら一発だったのに。。。

 

一人暮らしを経験するなら若いうちが吉

恥ずかしい話なのですが40代になるまでずっと親元で、

一人暮らしを経験した事がありませんでした。

何度か始めようと思った事はあったのですが、

結局本腰を入れるところまでは行きませんでした。

今思えば言い訳だなって理由です。

 

 

私は今日からGWに突入しました。

長期休みの最初には、必ずと言っていいほど掃除をします。

いつもより念入りに。

普段のリビング掃除なら掃除機にコロコロでおしまいなんですが、

窓や机周りのホコリ掃除、拭き掃除など、あれこれやりたくなります。

 

部屋がキレイになると、とても気持ちがイイんですよね。

よしやるぞ!ってテンションもアガる感じがしますアップ

 

 

掃除以外の代表的な家事といえば洗濯と料理でしょうか。

こういった「日常を送る為に必要な行為」について、

親元暮らしの頃は深く考える事はあまりありませんでした。

というか、考える必要性を感じなかったんでしょうね。

頼むわけでもなく知らないうち親がやってくれるという、

非常に恵まれた環境だったんですから。

 

そういった事の有り難みに気付き、

自分で片付けなければ永遠に終わらない、

そんな当たり前の事を知りました。

 

 

一人暮らしをしたかった理由の一つが

「生きるために必要な行為を知らない事が恥ずかしい」

という思いだったので、まずはチャレンジ走る人

結局、代行サービス頼むほどではないな?

と感じたので、そのまま自分でやってます。

 

時給換算すれば多少は頼むほうが安くもつきますが、

知らない(信用出来るか解らない)人を部屋にあげるのも、

あまり気持ちよく思えない性格なのも一因だとは思いますがあせる

 

 

学生時代は食べ物を扱うバイトをしていたので、

包丁もまったく使えないという事はなかったお陰で、

自炊もすんなり始められました。

とはいえ最初はエンゲル係数高かったですが…

「食べたいものを作る」から「ある材料で出来るものを考える」

に変わってからは、かなり食費を抑えられるようになりました。

買い物の仕方も変わりましたし、料理自体も楽しくなってきて

 

 

 

これらは、全く触れないままで暮らし、生きていく事も可能でしょう。

実際そういう人もたくさん居るみたいです。

ただ、知らない事でもやるしかない、って得難い学びだと感じるんですよね。

お金に繋がるとかは知りませんが、確実に自分の幅を広げてくれる。

それを若いうちに経験できるなら素晴らしい事だと思うんです。

学びの時期がいつだからダメとかはありませんけど、

どうせやるならいつの方がイイ、ってのはあるんじゃないかなと。

 

 

迷ってる方が居たら、ぜひオススメしたいです。

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(5)

新しい仕事で忙しくなって、なかなかブログ書く時間が取れません・・・

前回何をどこまで書いたのか忘れてしまう自分がおりまして(笑)

どうやらプログラマになるまで、を書いてたようですので、その続きを。

 

———————————————–

 

27歳で、遂に念願のプログラマデビューを果たしました。

わたしとAさんが派遣社員、社員のSさんがリーダー。

小さなチームで挑んだ新システムへのデータ移行プロジェクトでした。

 

 

毛も生えない初心者だった私は、それはもうアレコレと怒られました。

毎日怒られに職場へ行ってた、と言っても過言ではありません。

Sさんには嫌われてしまったのか、かなり細かい事まであせる

 

提出資料の字が汚い、ファイル名が分かり難い、PCのデスクトップが汚い、

挨拶の声が小さい、印刷資料のフォントサイズが小さい、等々。

ありとあらゆる事で怒られ続けました。

リアルに胃痛を感じるようになって、毎日つらかったです。

ようやく手が届いた憧れなのに、だんだん仕事に行きたくないと思うように。。。

 

 

この状況を変えてくれたのが、Nさんという方でした。

プロジェクトの途中で追加要員として参加したNさんは、

励ましてくれたりSさんを抑えてくれたりと、

仕事面も精神的にもフォローして下さいました。

そのお陰でなんとか最後までやり通せたのだと思います。

 

Sさん、Nさん、Aさん、そしてわたし。

4人のプロジェクトがどのようにして終わったのか、正直覚えていません。

とにかく必死の毎日でした。

せっかく1年半ほど辞めていたタバコにも手を出す始末。

 

 

正直自分には向いてないのかと感じていましたし、

プロジェクト終了と共に、自分のプログラマ人生は終わる、

そんな風に思っていました。

やっぱり担任の言ってた事は間違ってなかったのかな、って。。。

 

そんな私に声を掛けたのが、Sさんの上司だったTさん。

タバコ部屋でのちょっとした立ち話でしたが、

「頑張ってくれてありがとう。これからもよろしく。」

みたいな話でした。

 

 

・・・これから?まだこの生活続くカンジ??死んじゃう???

 

 

と、かなり戸惑った覚えがあります。

 

 

 

プロジェクト現場だったオフィスではSさんの会社、

J社の方々がシステム運用業務に従事されてました。

そちらのチームで引き続き業務に従事して欲しい、

とのご依頼を、後日正式に頂きました。

 

 

Sさんが自社に戻られる(つまりイビ…御指導をもう受けなくてよい)事と、

移行プロジェクトメンバーの仕事ぶりを見て選んだ、というお話を聞いて、

この先も頑張ってみよう!と引き受ける覚悟をしました。

 

 

 

Tさんはとても仕事の出来る方で、この部門のシステムを全て把握している、

ヌシのような存在でした。役職や立場に関係なく、皆が頼っていました。

こんな風になろう!と憧れたものです。

 

実際、今の自分の考え方の多くは、Tさんに影響されていると思います。

システムはただ構築するのではなく根底に思想が必要だ、

いう言葉はとても深く自分の中に根付いています。

 

 

 

Tさんの元では、2年間みっちり修行させて頂きました。

初めての業務プログラム開発、そしてプログラム設計、

開発チームのリーダー、顧客IT部門との折衝。

 

これまでやってきた仕事は、やる事が予め明確になっていました。

これからは自分でたくさんの事を決めなければならない。

この時初めて社会人らしい仕事に触れたのかも知れません。

 

 

 

初めてのプログラム開発では、笑われながらも、

初めてにしてはよく出来てる、頑張ったな、って褒めて頂きました。

データベースに「区分1」なんて日本語を突っ込んだのも、

今となっては懐かしい想い出です・・・てへぺろ

 

 

2年後にこの現場を離れる事になったのは、お客様の事情。

J社さんの組織変更もあって、私も契約を終える事になりました。

 

前出の営業さんからすぐに次の仕事の提案を頂きましたが、

そこはあまり肌に合わず、1年で去りました…

 

 

 

 

結局、幼い頃あんなに憧れていたプログラマーでしたが、

私がプログラマーとして仕事をしたのはこの3年程だけでした。

 

 

短い間の、小さな小さな矜持でしかありませんが。

 

たしかに自分は達成した。

 

そう思える事が自分を支える一つの柱であることは、

疑う余地もありません。

 

 

 

 

プログラマの終わり頃に開発を含めた移行プロジェクトに携わり、

それがきっかけになったのか、移行プロジェクトばかりに関わるように。

 

少しずつプログラム開発からタスクが離れていき、

それと共にインフラ作業の比率が増えていき、

そうして気付けば今。

 

 

いつの間にかインフラSEとして生きています。

 

 

大手ベンダの仕事と関わるようになってからは、

これが生業と自信を持って言える位には稼いで、

それなりに困る事が少ない暮らしを送っています。

 

しんどい事もいっぱいいっぱいいーっぱいありますが、

期待して任せて頂く仕事も増えましたし、

現場の関係者からも嬉しい評価頂いたり。

 

やっぱり、基本的に好きな事だからなんでしょうか。

鬱になる事もなく元気に楽しく働いてますね。

 

 

 

 

 

だから、やっぱりこう思うんです。

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになって、

人生充実してるなーって!!!

 

 

 

– 終わり –

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(4)

25歳にして遅れ馳せながらIT業界に踏み入れた私。

この時、学歴は高卒、資格は普通免許のみ。
業界というか、そもそも社会人を未経験。

 

とても不安な気持ちだったのを覚えています。

 

 

その私の初めての仕事は、いわゆるテスターと呼ばれるものでした。

 

 

テスト仕様書に従って、その通りに動かして問題ないか、

ひたすら確認するといった内容。

 

対象の機器はWebページを表示する端末だったのですが、

仕様通りのWebページが見つからない場合に、

手書きHTMLでテスト用ページを作ってました。

 

趣味が実益に繋がった初めての瞬間でした。

 

 

ちなみにこの仕事の勤務地なんですが。

高校一年の夏、ギターを買うお金の為のバイト。

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

その納入先だったSHARPの工場だったのです。

タダの偶然とは分かっていても、感慨深いものがありました。

 

 

 

この仕事は三ヶ月の期間で募集されていたのですが、

ありがたい事に契約延長の希望を頂きました。

立場も一担当者からチームリーダーに昇格し、

更に仕事にドップリ浸かる事になっていきます。

 

 

その後、この現場では2年働きました。

社員でも無いのに、随分こき使われました。

そしてその分、育てても頂きました。

どちらかと言えば、勿論感謝が勝っています。

ここでの2年も、今の私の足場を築いた大切な時間でした。

 

人を使う難しさ、人を気遣う優しさ、仕事への向き合い方。

同僚や上司、部下、様々な人と関わりながら学んだ日々でした。

 

 

この仕事を辞めた理由は、一言で言えば「将来性」です。

 

機器の仕様を元にテストする項目を検討して実施。

この道の先で、自分は何が出来るようになっていくのだろう、

そういう不安感が芽生えた事がきっかけでした。

 

 

ちなみにこの時仕事を辞めた後に、

初めての海外旅行を経験しました。

かなり色々な出来事に出会えたので、

またいつか書いてみたいと思います。

 

 

次の仕事は、やっぱりプログラマをやってみたい。

昔のバイト仲間がプログラマで就職していたので、

面接だけでもと口利きをお願いしてみた所、

いきなり社長面接して貰える事になりました。

 

これはかなり好感触だったのですが、

結局その後連絡がありませんでした。。。

 

 

そこで、今までとは違う大手派遣会社の面接へ。

 

この時の出来事というか面接の内容が、

結構忘れられない出来事なんですが、

面接官の初老の男性に、それはもうボロクソに、

お前に価値ど無いとばかりに貶されました。

曰く。

 

大学を辞めて何をしてたのか。

2年ぐらいのテスター経験で仕事をしてきたつもりか。
そんな歳まで遊んでいて仕事があると思っているのか。
自分が何か世の中の役に立てるつもりなのか。
面接を受けても不採用に決まってるん。諦めろ。
君なんか紹介するだけ無駄だ。

 

忘れもしないパソ○テックさん、その節はお世話になりました。

 

ここはもうアテには出来ないなと感じたので、

お世話になっていた営業職の方に、

何か仕事がないかと連絡をとってみました。

 

結局ほぼ同タイミングで双方の面接を受ける事になりました。

 

パ○ナさんの面接は名古屋の開発会社。

ここの面接が大変好感触だったそうで、

名古屋まで旅費を出すから是非会社に来てほしい、

雰囲気を見て良かったらウチに来てほしい、

という二次面接のお誘いを頂きました。

 

評価が高かったせいか、前出の面接官も態度が豹変。

お前よばわりのタメ口から突然さん付で敬語って。

 

 

営業さんの方は、古くから付き合いのある方が

独立して企業したという大阪の開発会社。

力関係が先方<営業さんだったようで、

開発経験0でも無理やりにネジ込んでくれるとアセアセ

 

 

結局、お金の条件で大阪の会社にしました。

名古屋は、最初3ヶ月が使用期間で月10万、

大阪は派遣で単価が30万、とかなり違ったので。

 

この時名古屋に行っていれば、また人生が違った事でしょう。

プログラマとしてのスキルは当然磨かれていたでしょうが、

現時点の収入はきっとずっと低かったと思いますし、

今のようなスタイルで働く事も出来なかったと思います。

(年間9ヶ月労働で生きる、を実践中。これもまたいずれ。)

 

 

ここで私はSQLを初めて学びました。

全く知識0、SQLって単語も聞いたこと無い状態で、

業務アプリの開発要員。

今考えたら、無茶苦茶ですね…よく受け入れてくれたな。

 

 

分厚い本を渡されて、一ヶ月で覚えてきて、

それが最初の課題でした。

当時流行していたチャットルームで、

仲良くしてたプログラマに相談し、

流行のDBのインストーラを借り、独学。

 

 

初めて入った現場では、システム移行要員として、

テーブルデータを新システムへ移行する為のSQLを

来る日も来る日も書いてました。

 

 

IT業界へ踏み込んだ私は、2年目、27歳にして、

ようやく念願のプログラマーとして第一歩を踏み出しました。

 

 

今回は、ここまで。

 

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(3)

IT業界にかかわるまでの話です。
————————–

二十歳になろうかという頃、
一つの転機が訪れました。

しばらく音信不通だった“Y”から久しぶりに連絡があったのです。

曰く「一緒にバンドをやらないか」と。

聞けば、大学の軽音部でバントを組んだものの、
ギター担当がかなりもやもやな方だったようです。

私もちょうどギターを弾く場がなかったので、
それなら一度、とリハスタに集まりました。

2時間程一緒に演奏して、その日のうちに正式メンバーに。
“Y”の紹介でリハスタ店員のバイトにもあり付きました。

それから五年間はバンド三昧の日々。
大学はサークルの部室に顔を出すくらいになってしまい、
挙げ句、四年通った時点で辞めてハートブレイクしまいました。

(しかも色々あって除籍扱いムカムカ

 

これは当時親と相当揉めました(当然ですが)し、

自分自身かなりの後悔ガーンがあったのだと思います。

何度も何度も、10年以上経ってさえ、入学し直す夢を見ました。

 

あまりの申し訳なさに耐えきれなくなって、

30歳くらいの頃に親に全額返済コインたちしました。

それでもまだ、夢に見ます。

 

 

 

 

そんな風になるなんて思いもしないまま。

リハスタの店員をしながら、せっせとライブ活動ギターを続けてました。
いつしかメンバー同士、プロを目指そうと話すようになっていき。
バンドが全てに優先する生活でした。

とても充実した時間でした。

 

気付けば、25歳になってました。

 

バンドも悪くはないものの、特別な存在にはなれないまま。

バイトでその日暮らしの自分に、自分の将来に、

不安を感じはじめ、就職が頭をチラつくようになりました。
 

 

そんなある日。

「就職考えてるんだって?」
と、リハスタの社長に勧められたのが。
そう。
プログラマー
だったんです。

リハスタ店員で一番コンピュータに詳しかった事。

店舗システムについて色々話していた事。

社長とのそれまでの会話から、

こういう方面が得意なのでは?と感じていたそうです。

ただこの頃、私の気持ちは正直に言って
全然プログラマーの方を向いていませんでした。
恥ずかしながら、今後の職業の選択肢に
思い浮かんですらいないという有様でした。

だから、この時の話が無かったら、

私の今は全然違うものだったと思います。

“Y”との繋がりから生まれた社長との繋がり、
それが私の人生を大きく変化させたのです。

社長と話してすぐ、ハローワークへ向かいました。

初めての就職活動でした。

小さな一軒家をオフィスにする、
小さな会社の採用面接を受けました。
落ちました

めげずにすぐハローワークへ行きました。

すぐに次の面接を受けに行きましたが、
それも落ちました

5社くらい落ちると、少し不安が芽生え始めました。

不採用になる可能性(それも普通より高いはずの)を意識出来てませんでした。

無邪気ですね。

何の勉強もして来てないのに、いきなり雇ってくれなんてアセアセ

今考えたら分かりますけど、役に立ちそうに思えないですよね。

 

 

 

そこで、そもそも考え方が間違ってるのかな?
と少し方向性を変えてみました。

正社員が無理なら派遣でもいいじゃないか。

IT系の仕事で定収を得る、が本来の目的だったはず。

 

何でもいいから、まずIT関係といえる仕事を初めてみよう。

初めてみなければ次のステージだって見えるはずがない。

その場に立ってなければチャンスだって巡ってこないだろう。

 

 

新聞の折込広告で目にした、WEBサイト作成者募集。
ホームページのHTMLを手書き出来たのが幸いしたか、

この仕事は即採用になりました。

こうして、中学高校大学その後と回り道をし続けて、

ようやくIT業界への第一歩をようやく踏み出したのです。

 

 

続きはまた、次回に。

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(2)

高校時代の話になります。

 

IT業界を目指す人にとっては何一つ役に立つ事は書いてません。

お役立ち情報を求めて辿り着いてしまった方には敢えて言いましょう、

ごめんなさいと。

 

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外圧に負けて悔しい選択だったものの、無事高校生にはなりました。

普通科の高校生になってしまいましたショボーン

 

 

さあ高校始まるぞーワクワク音譜

 

っていう記憶が微塵もミジンコオバケ程も残っていないので、

やっぱり楽しみでは無かったんだろうなと思います。

失意の方が強かったというか、しょんぼりしてた筈です。

 

 

入学式桜を経ていよいよ新生活、まずはクラス分けですね。

私のクラスは芸術科目選択「音楽」の集まり。

そしてその教室には、以前から気になっていた彼の姿が。

 

 

はっきりと覚えています。

合格発表の帰り、すぐ前を歩いていた彼。

襟足なげーな猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたまと思ってた私。

そしてふと振り向いた彼。

 

彼はとても綺麗な顔立ちをしていました。

念の為ですが、私は男色のケは欠片もありません。

それでも強く印象に残っていたのです。

 

これが、数十年に渡って付き合いの続く友人Yの、最初の印象です。

(今はもう、見る影もないオッサンに成り果てましたが😁)

 

 

 

 

中学生の頃はパソコンの他、アニメやゲームも大好きでした。

そんな私が布施のアニメイトで買った、「吸血鬼ハンターD※1」の下敷き。

これが友人Yとの縁を繋ぐキッカケになりました。

吸血鬼ハンターDの第一作がOVA化された時、
音楽を担当したのが小室哲哉氏でした。
主題歌は勿論、TM NETWORK

そして“Y”と私、二人ともが大好きだったユニットです。

 

 

む。
だった?今も好きです。ゲッワイゲッワイ!

 

 

 

同じものが好きと分かれば、話題もはっきりする訳で。

共通項を見つけた我々は、どんどん仲良くなりました。

その出会いが更に出会いを呼んでいきます。

 

小室哲哉氏に憧れたキーボーディストの“Y”

父親仕込みのギター好き、“O”

BOOWYのベースに憧れていたという、E”

機会があればバンドやってみたかった、“I”

そして歌うのが好きだった、私。

 

 

プログラマーになろうとしていたはずの子供は、

なぜか高校生になって早々に道を違えてしまい、

バンドやろうぜ!!

とか言い出してしまったのです。

 

 

 

ただこの時たった一つだけ誤算がありました。

私は歌が好きなだけでとても下手だった笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

同学年にとても歌の上手いボーカルも居たので、

私はすぐにお払い箱うずまきとなりました。

 

遊びの輪には居るけれど、バンドの話じゃ蚊帳の外。

又しても、いつぞや感じた生暖かい視線がやらかい場所に。

 

 

 

ならばやはり初心に戻って、プログラマーを目指して頑張るべき!

プログラマーに俺はなる!!!

とは考えなかった当時の私。

 

 

 

 

 

ボーカルをクビになった私は、

よろしい。ならば演奏だ。

と考えたのです。何故だったんだろう。

 

 

 

バンドやる訳じゃないし一人で出来る楽器、

という事を考えた覚えはあります。

幸いな事に、家には妹が弾いてたピアノがありました。

 

ピアノがあるからと言って

キーボードをやるとでも思ったか。

 

どういうロジックだったかは不明ですが、とにかく私は、

ギターを弾け(るようになり)たいと思ってしまったのですびっくり

 

 

何故だ!? 

「坊やだからさ」

 

「今度こそやりたい事をやる!!」って反発心だったのかも知れません。

 

そうして高1の夏休み、ギター代を貯める!

と意気込んで、初めてのアルバイトに挑戦しました。

 

 

 

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

それを市内のSHARP工場へ搬送。

それを夏休みが終わるまで、の契約です。

 

初めての仕事で解らない事だらけ。

それ以上に、様々な面で坊やでした。

めちゃくちゃに御迷惑をお掛けして、

それでも優しく指導して頂いて。

申し訳なさ過ぎて、今思い出しても泣けてきますえーん

 

 

そうやって挫けそうになりながら掴んだお金は、

ひと夏でなんと5万円。

 

 

 

ナケナシの5万を握り締めての新学期。

ギターを買いに都会へ向かおうとする私に、

思い掛けず着いて来てくれると言ったのは“Y”でした。

 

 

彼の勧めるまま、あちこちの楽器店を巡り、候補にしたのが

MG-M※2(M2だったかも)と、フェンダージャパンのストラト。

 

 

悩んだ末、ストラトに決定。

 

決め手は「見た目」でした。

とにかくひと目見て心奪われたんですよね。

私見ですが、男子高校生にとって見た目って重要じゃないですか?

 

 

ギターのモデル名とかは覚えてません。

濃い茶色のボディに白ピックガードでした。

 

ST62-115 WALが一番似てますが、

私のギターは金属パーツがシルバーだったので、

下位モデルだったのかも知れません。

上記型番はレア物らしく、値段もお高いようです。

 

 

 

それからは友人にバンドスコア(楽譜)を借りて練習する毎日。

CDに合わせて一曲間違えずに弾けるまで繰り返す。

一応「その曲に聞こえる」ようになったのは半年後くらいでしょうか。

 

ある日の音楽の授業で、複数人で音楽を演奏する課題が出ました。

私は初めたばかりなのか微妙な時期のギターを披露する事になり、

“Y”ではないキーボード奏者の友人“K”と一緒に演奏しました。

考えてみれば、あれが人生初のステージでした。。。緊張したガーン

 

 

これを聞いた“Y”達とは別のバンドメンバーに誘われ、

卒業するまでLINDBERGのコピーバンドをやってました。

私と“K”、あとの3人が女子。十分楽しい毎日でした。

 

高3では学祭ライブにも出て、体育館のステージ上で演奏しました。

緊張で指は動かず、一曲目でいきなり弦が切れ、下手すぎて許せないと酷評され。

これについては、散々だった記憶しかありません。。。

 

 

 

そんなこんなで楽器を手にしてしまった私は、

プログラムそっちのけでギターを弾いて高校生活を終えたのでした。

 

 

 

情報分野の方はどうだったのか、というと。

数学の苦手感もやもやはアップして、常時赤点みたいな状況で。

 

補習の常連になったお陰で数学教師とも仲良くなりました。

大学受験も経済・経営と文系学科、受験科目は英国社。

 

 

話の流れ的にも、SEになれそうな気配は無いですね。

実際、ありませんでした。皆無でした。

プログラマーの道はもう、諦めてました。

この時点では。

 

 

 

 

さてさて。

高校卒業でバンドも解散したので、

次の場を大学の軽音部に求めました。

 

しかしそこはメタリックな重低音が響く、

時はまさに世紀末

 

アンプのツマミが少しズレた程度でも人を殺しそうな先輩たち。

けいおん!みたいな明るさは欠片もありません。

あれは重音部だろ、といった友人の言が忘れられません。

 

 

ここは初心者の来る場所じゃないなと、すぐ退散しました。

そして道端で勧誘された新歓コンパというタダ酒に釣られて、

音楽と関係ない旅行サークルに入り、知らなかった遊びを色々教わり。

 

そろそろ二十歳を迎えようという頃に、一つの転機を迎えたのです。

 

 

といった所で、次回に続きます。

今回は書いてる内に雑な文章になってしまったり、

引用ネタが多くなってしまいました。

 

 

・・・ところで、今はもう下敷きって使わないんですかね?

 

 

※1

ちなみに吸血鬼ハンターDですが、

1983年1月の第一作発表から今なお未完の超大作です。

挿絵はかの天野喜孝画伯。FFが有名でしょうか。

最新刊は2018年4月の46巻(エピソードとしては33)となっています。

 

※2

B’zの松本孝弘氏が初期ライブで使っていたモデルです。
ちなみに後年、素のMG(誰モデルでも無い物)を購入しています。
MGはとても弾きやすくて、かなり長い間使っていました。
最初にMG-Mを買っていたら、ギターの本数は随分減っていたでしょうてへぺろ

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(1)

プログラマになりたい乙女のトキメキ、と思ったのは小学生の頃でした。

友人の家にあったPC-66、そしてベーマガ※1

衝撃を受けた、という程の記憶はないんですけど。

プログラムって物がなんだかカッコよく見えました。

 

 

当時はどれほど高価※2な物かも知らず、

ただパソコン欲しいって言ってました。

「おばあちゃんパソコン買ってラブラブ

「はい、グラスホッパー車

「イヤンそれラジコ~ンチュー

 

・・・とあるクリスマスの懐かしい記憶です。

 

 

 

初めてパソコンに触れたのは中学生。

父親が仕事用に買ったPC-98でした。

5インチのペラッペラなフロッピーディスク手裏剣

ガッチョンガッチョンむかっやかましい2台のドライブ、

電源投入時のピポッ右上矢印てBEEP音。

・・・こうやって書いてるだけでも懐かしいですね。

 

 

といっても大した事をしてたって訳でもなく、

ベーマガ掲載プログラムを入力して動かしたり、
たまに自分のオリジナルでプログラムを作ったり。

プログラムの基本のキはこの頃学びました。

 

友達に借りたゲームで遊んだりもしましたね。

チート用ツールみたいなものは当時もあって、

ゲームのセーブデータを弄ったり。

コンピュータのメモリとアドレス、バイト表現、16進等、

仕組の部分もそうやって学んだ気がします。

 

 

今の自分に通じる基礎はほぼこの頃で学びました。

とにかく全てが楽しくて仕方なかったです。

他人のプログラムを見ながら、

ここをこう変えたらどうなるの??

あれ、なんかヘンになっちゃたもやもや

ここでこうして・・・ここまでOKかガーン

じゃあこれ?おおお上手くいったー!お祝い

みたいな感じで。

 

デバッグは遊びの延長線上にあって、

そしてそのまま学びになってました。

 

 

普段がそんなですから、担任にも言う訳ですよ。

「将来はプログラマーになりたい」って。

高校受験の時には、高専に行きたいって。

(当時既に、高専には情報科がありました)

 

そんな私ですが、数学の点数は非常に低く。

どうにも苦手だったんですねえ・・・

(得意科目は国社英。文系SEの典型ドクロ

 

 

なので担任は必死のパッチで阻止してくる訳です。

「その数学の点じゃ無理」

「苦手科目の進学は将来大変」

「高専は理系短大扱いで就職厳しい」

※1980年代の中学教師の認識です
 

これは三者面談なんかで担任とかなりやり合いました。

自分の人生、他人に口出しされる謂れはない!

とかって。

 

 

 

最終的に、担任の方から

「別の私学も公立も受けるなら高専受けてもイイヨOK

って(なんで上からなのかはともかく)妥協案が出て、

それに両親が同意してしまったので。

バーター条件の元、高校受験に臨みました。

 

滑り止めの私立電子科、本命の高専、

金銭的理由から公立普通科、のラインナップです。

 

 

私立は滑り止めというのもあって無事合格。

本命の高専は思ったより試験の手応えもよく、

同じ中学から受けた5人との答え合わせもバッチリ。

沢山の人の期待に応え、見事に私だけ不合格合格でした。

 

合格した4人の生暖かい視線で心のやらかい場所が痛かったです。

 

 

この時点で自分の中では私学進学が決定してました。

私学進学の希望を伝えても、公立は受けろと押す担任。

行く気もないのに受験とか時間も金も勿体無い、と私。

担任がどこがオススメだ、ここの学校もイイ、などと

あれこれ勧めてくるけど、全部聞き流してました爆  笑

 

 

最終的には、親が担任に説得されてしまって、

不承不承ながら受験する事になってしまいました。

 

受験後、前年より倍率がグンと上がった事が判明し、

担任にめっちゃくちゃ謝られたのですが、

そんなものこっちからすればシメシメですよ。

ラッキー以外の何者でもねぇな!と思ってました。

 

そして卒業式を経て合格発表へ。

沢山の人の期待に応え、見事に合格ガックリでした…。

 

ま、合格したトコロで俺はどうせ私立に行くんだし。

 

 

 

 

 

 

 

そう思っていた時期が私にもありました。

 

お金の事で泣き付かれては、

養われる身では抗う術もありません。

周囲からの強固な説得というか脅迫、

それらに負けて公立へ進学しました。

 

 

もの凄く悔しかった事を覚えています。

大人が勝手に決めた答えを押し付けられた事。

それに説得されてしまった自分に対する失望。

 

 

 

今冷静になって考えてみれば、試験で手を抜けばよかった。

それだけの事だったんですよね。。。

まだまだ、子供でした。

 

 

この後高校、大学を経て、社会人になっていきますが、

続きはまた後日。

 

 

※1 電波新聞社のマイコンベーシックマガジン。パソコンではなくマイコン

※2 NECの名機PC-88の標準価格は228,00円。当時の大卒初任給は13万程

 

これから

今まで自分が得てきた物を世に還元する、というとなんとも偉そうな感じがしますけど。

なんかしら、自分が食う為だけでなく、社会に還元出来ないかと考えて、

自身が苦労している、知識や情報の整理を始めると共に公開してみようかと思います。

斯く言う私が何者か、端的な話だけ致しますと。

大学を卒業出来ず、フリーター・派遣社員を経てフリーランスのSEとして活動しています。

数学が苦手で、プログラマなんて諦めなさい!と言われてた中学生も、

気付けばSEとしてメシをくえるようになりました。


愚直に生きてるだけでもそれなりに生きてける。

(とは当然かぎらないのが人生なのですが)

そう信じられるだけでも、今のご時世随分救いがあるように思いますので。


・無職のフリーターがIT業界に飛び込んだ話

・飛び込んだ先であっぷあっぷしながら(時には溺れて)食いつないだ話

・仮想通貨で大損した話

・IPAの資格を取得した話(それがどんな風に生きたか、も)

なんかを書いてみようかなと思っています。

さしあたり、取得した資格の話は分かりやすそうかなあと。

以上、よろしくお願い申し上げます(笑)