IT業種に転職したとき

検索ワードに「転職」がチラホラ見受けられるのですが、

IT業種に転職を希望している人って今多いのでしょうか。

 

やってみたいけどどんな仕事かよく分からないし、

という不安感で踏み出せないケースもあると思います。

だけど、興味を持って、自分で勉強する意欲があれば、

きっと何とかなると思います。

私自身、文系未経験資格なし、の状況で飛び込んだので。

 

 

転職を考えている人の参考になるかどうか解らないですが、

いくつかの経験談を書いてみようと思います。

 

■未経験からIT業種へ

・業務内容 : 携帯端末テスター

・就業形態 : 派遣社員

新聞の折込広告を見て電話しました。

派遣会社、就業現地での面接を経て就業。

当時の私はIT業というか正社員未経験でした。

中学生の頃にBASICでプログラミングを経験していた事、

就業の2年くらい前からHTML、JavaScriptを独習して、

小さなホームページを作った事がありました。

この仕事では、HTMLタグに理解がある部分がポイントだったそうです。

 

 

■プログラマ未経験から基幹系業務アプリ開発者へ

・業務内容 : 基幹システム移行→基幹系業務アプリ保守・開発

・就業形態 : フリーランス

前職のテスター時代にお世話になってた営業さんが独立されて、

そこからお仕事を貰う形でフリーランス状態に。

この営業さんのツテでねじ込んで貰ったお仕事でした。

 

最初はシステム移行に伴うDB(Oracle)移行ツール作成。

この時点で私はSQLが何か知りませんでした。

そしてVB6は趣味プログラム程度の経験(基本概念が分かるレベル)。

厚さ15cmくらいの社員教育用ドキュメントを渡されて、

これ一週間で覚えてきて、って言われたのをとても強く覚えてます。

この頃は帰宅後も結構勉強してました。

移行PJ終了後、保守開発メンバーとして契約継続頂きました。

一緒に入った10歳年上の方は契約終わってしまったので、

勉強した甲斐があったなと思います。

 

 

■プログラマからインフラSEへ

・業務内容 : Webサーバ移行(新環境構築+コンテンツ移行)

・就業形態 : フリーランス

プログラマでの契約完了後少し仕事が無い期間があり、

つなぎにどうか?と提案された仕事でした。

自作PCに興味があって、AMDがK6出した頃からPCを組んだり、

またLinuxに興味があったのでWinとLinのデュアルブート環境を作ったり、

Linux上でHTTP、FTP、DNS、iptables(ファイアウォール)等を構築してました。

ネットワークやインフラ的な素養はこの頃に身についたのだと思います。

プログラマ時代の環境もUNIXだったので、CUI操作にも慣れてました。

 

 

 

派遣社員からそのままフリーランス暮らしで、そろそろ20年になります。

最初は不安でいっぱいのまま飛び込んだ業界でしたが、

コンピュータを触って、それが意図通りに動く、それがとても楽しくて。

どこかでだれかに習うでもなく、調べて試して失敗して、を繰り返してきました。

 

今では天職だったとしか思えないくらい馴染んでいます。

 

 

 

 

 

余談ですが、月収は未経験の頃を1とすると、プログラマ時代で1.5、

インフラ系に携わってすぐの頃は2.5、現在は案件によって幅がありますが、

最低3.5、多い時で5、といった水準です。

 

5分で出来る!HTTPサーバonWindows10

初心者・未経験でITの世界に飛び込む方がどんどん増えてるみたいですね。

そういう方向けの教育+転職支援サービスもあるようで。

私が仕事を探していた頃にそういうものがあれば、活用していたかも知れません。

していないかも知れません。やっぱり独学だったような気もします。

 

ですが、「とにかくやってみたい!だけど何をすればいいか解らない!」

といった独学ならでは(?)の初歩的な疑問に悩んだ事も多々ありました。

BASICしか知らなかった私がC言語に初めて触れた時の悩みは、

「Cってプログラム書いた後どうやって動かすの!?」でした。

(BASICはコード書いてRUNすれば実行された)

 

 

Web系のプログラムを勉強してみたい!っていう人が居たら、

やっぱり自由に触れるHTTPサーバがあった方がやりやすいのでは?

そう思って自分のPCにIIS環境を構築してみたらすごく簡単だったので。

テスト環境構築の一助になればと思い、以下に手順を書いてみます。

 

 

 

■使用環境

Windows 10 Pro(バージョン1909)

 

 

■作業手順

1.コントロールパネルを開く

 

2.[プログラム]をクリック

 

3.[Windowsの機能の有効化または無効化]をクリック

 

4.[インターネットインフォメーションサービス]にチェックを付けてOKをクリック

 

5.スタートメニューから[Windows管理ツール]>[インターネットインフォメーションサービス]をクリック

 

6.IISマネージャ画面が表示される

 

7.以下のどちらかの方法でドキュメントルートを参照

A:左ペインのツリーから[Default Web Site]を右クリックして、[エクスプローラー]をクリック

B:[ディレクトリの参照]アイコンをクリックし、右ペインの操作メニューから[基本設定]をクリックして、[物理パス]に表示された値を、エクスプローラーのアドレスバーにコピー&ペースト

 

8.ドキュメントルートのフォルダが表示される

 

9.ブラウザを開き(ここではIE)、アドレスバーに下記URLを入力する

http://localhost/

 

この時点で、HTTPサーバへのアクセスが出来る状態になっています。

ここまでなら、5分でなんとかなるんじゃないかと思います。

 

既にApacheでWebサーバ立ててるとか、Webサーバを内包するアプリ環境があるとか、

そういう場合にはポートがバッティングして上手くいかない事もあると思いますが、

そのレベルに有る方は意味も修正手順も分かるだろうし割愛しても問題ないでしょう。

 

 

 

10.先程開いたドキュメントルートのフォルダに、「Hello」というフォルダを作ります。

 

11.「world.htm」というファイルを作成し、Helloフォルダの中にコピーします。

htmファイルの中身は適当で構いません。

<!– サンプル –>

<html>
<head>
    <title>testpage</title>
</head>
<body>
Under construction!
</body>
</html>

 

12.ブラウザのアドレスバーに下記URLを入力する

http://localhost/hello/world.htm

 

 

 

基本のキまでも行かないくらいのレベルですが、まずはここまで。

ここから、やりたい事に応じて色々と設定が必要になると思います。

 

SQLserver2012のログファイル物理サイズ縮小

今勤めているのは出戻り現場。5年前から2年間お世話になってました。

 

当時、まともにドキュメントもなく管理されていないシステムを前に、

サーバーの一覧(すらなかった!)を初めに、管理資料や手順書群を作り、

後続要員に半年かけて引き継いだのですが。

全く運用されてないしドキュメントも修正されてない有様で…

5年前と同じく、調査とドキュメント作成に勤しむ毎日です。

 

そんな愚痴から始まる今回の記事は、

昨日からトライ&エラーでやってた事を書いてみようかと。

SQLserverの基本的な事は知ってる前提になりますが、

それがそもそも何なのかは私もわかりません。。。

 

■発端

テスト用DBサーバのDBバックアップが失敗してました。

調べてみると、容量不足。

 

■原因調査

で、SSMSからDBのプロパティを眺めていると、

初期サイズ50GBも取ってる癖に使用可能が49GBという、

なかなかの乱暴者を発見。

主に利用するチームのリーダーに確認した所、

当初要件でサイズ見積したが、要件ドロップした為

DBのサイズは小さくしても構わない。

但し今テストで使ってるので、中身は壊すな、との事。

 

■愚痴

要件落ちた時点で再見積もりしてくれよ…

ディスク領域には限りがある事を意識したまえ。

サポート問い合わせしようとしたら、契約切れてました。。。

取り敢えず自宅PCにSQLserverをインストールして、

あれこれ試してみることに。

 

■手順確認

まずGUIでSSMSからの容量削減を試す。

①初期サイズとしてデータ1000MB、ログ10MBのDBを作成。

②適当にテーブルを作ってデータを投入

③SSMSのプロパティで初期サイズを小さくしてみる。

 

あっさり縮小可能。物理ファイル(.mdf)も小さくなっているし、

中身も問題なくselect出来る。

 

次に、

④初期サイズを超えるくらいデータを作成する

⑤データを一旦truncate後、再度データを少しだけ入れてみる

⑥ここで③同様の操作で初期サイズまで削減

 

これも問題なく動作。

じゃあ、もっとガツンと小さくしたらどうなるのか?

という興味が湧いて、サイズを1MBに指定してみました。

すると、初期サイズの指定値が”3”に変化しました。

 

 

つまり、指定値が小さすぎたからと言ってDBが破損する訳ではなく、

可能な限りで頑張って小さくしてくれる、という事みたいです。

 

 

■疑問が増える

あれこれ試したせいか、トランザクションログが大きくなってしまいました。

これをDBと同じようにちいさく…できませんでした。そうですよね。

DBを作成する時に完全復旧モデルにしていたので、

正しいお作法で縮小しないといけないようです。

 

1,初期状態

 

まずはDB圧縮を試してみました。

 

2.DB圧縮後

お、ちょっと縮んだ。

 

そういえばトランザクションログはバックアップで切り捨てられるんだっけ、

という何となくの記憶に従って、次はバックアップを実行。

 

結果。あれ?小さくならない…

 

再圧縮してみる。

 

おおー、小さくなった!

 

つまり、トランザクションログのバックアップを実行して、

中身が切り捨て可能な状態になってから圧縮するのだな!

よし、もう一回確認しておこう。

 

同じSQLを流してログを増やしてから、

 

ログをバックアップしてサイズ確認。この時点ではこのくらい。

 

今度はファイル指定の圧縮を試す。

 

・・・あれ?バックアップ後と一緒??

 

この後、DBの完全バックアップ→DB単位の圧縮→ファイル単位のログ圧縮、

と繰り返してみましたが、ログの容量が小さくならない。

困ってしまったので、DBを削除して1からやり直しました。

 

■結局正しい手順は・・・

MSの正規の手順というものがあるのだとは思いますが。

見つけられませんでしたので、あくまで個人的な実験の結果として。

 

1.まず圧縮(どっちのやり方でもOKみたいです)

2.次にトランザクションログのバックアップ

3.最後にもう一度圧縮(こちらはファイル単位圧縮しか試してません)

 

この方法で3度くらい試して、毎回ログは縮小されました。

 

 

無事に来週を迎えられそうで、ホッとしています。

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(5)

新しい仕事で忙しくなって、なかなかブログ書く時間が取れません・・・

前回何をどこまで書いたのか忘れてしまう自分がおりまして(笑)

どうやらプログラマになるまで、を書いてたようですので、その続きを。

 

———————————————–

 

27歳で、遂に念願のプログラマデビューを果たしました。

わたしとAさんが派遣社員、社員のSさんがリーダー。

小さなチームで挑んだ新システムへのデータ移行プロジェクトでした。

 

 

毛も生えない初心者だった私は、それはもうアレコレと怒られました。

毎日怒られに職場へ行ってた、と言っても過言ではありません。

Sさんには嫌われてしまったのか、かなり細かい事まであせる

 

提出資料の字が汚い、ファイル名が分かり難い、PCのデスクトップが汚い、

挨拶の声が小さい、印刷資料のフォントサイズが小さい、等々。

ありとあらゆる事で怒られ続けました。

リアルに胃痛を感じるようになって、毎日つらかったです。

ようやく手が届いた憧れなのに、だんだん仕事に行きたくないと思うように。。。

 

 

この状況を変えてくれたのが、Nさんという方でした。

プロジェクトの途中で追加要員として参加したNさんは、

励ましてくれたりSさんを抑えてくれたりと、

仕事面も精神的にもフォローして下さいました。

そのお陰でなんとか最後までやり通せたのだと思います。

 

Sさん、Nさん、Aさん、そしてわたし。

4人のプロジェクトがどのようにして終わったのか、正直覚えていません。

とにかく必死の毎日でした。

せっかく1年半ほど辞めていたタバコにも手を出す始末。

 

 

正直自分には向いてないのかと感じていましたし、

プロジェクト終了と共に、自分のプログラマ人生は終わる、

そんな風に思っていました。

やっぱり担任の言ってた事は間違ってなかったのかな、って。。。

 

そんな私に声を掛けたのが、Sさんの上司だったTさん。

タバコ部屋でのちょっとした立ち話でしたが、

「頑張ってくれてありがとう。これからもよろしく。」

みたいな話でした。

 

 

・・・これから?まだこの生活続くカンジ??死んじゃう???

 

 

と、かなり戸惑った覚えがあります。

 

 

 

プロジェクト現場だったオフィスではSさんの会社、

J社の方々がシステム運用業務に従事されてました。

そちらのチームで引き続き業務に従事して欲しい、

とのご依頼を、後日正式に頂きました。

 

 

Sさんが自社に戻られる(つまりイビ…御指導をもう受けなくてよい)事と、

移行プロジェクトメンバーの仕事ぶりを見て選んだ、というお話を聞いて、

この先も頑張ってみよう!と引き受ける覚悟をしました。

 

 

 

Tさんはとても仕事の出来る方で、この部門のシステムを全て把握している、

ヌシのような存在でした。役職や立場に関係なく、皆が頼っていました。

こんな風になろう!と憧れたものです。

 

実際、今の自分の考え方の多くは、Tさんに影響されていると思います。

システムはただ構築するのではなく根底に思想が必要だ、

いう言葉はとても深く自分の中に根付いています。

 

 

 

Tさんの元では、2年間みっちり修行させて頂きました。

初めての業務プログラム開発、そしてプログラム設計、

開発チームのリーダー、顧客IT部門との折衝。

 

これまでやってきた仕事は、やる事が予め明確になっていました。

これからは自分でたくさんの事を決めなければならない。

この時初めて社会人らしい仕事に触れたのかも知れません。

 

 

 

初めてのプログラム開発では、笑われながらも、

初めてにしてはよく出来てる、頑張ったな、って褒めて頂きました。

データベースに「区分1」なんて日本語を突っ込んだのも、

今となっては懐かしい想い出です・・・てへぺろ

 

 

2年後にこの現場を離れる事になったのは、お客様の事情。

J社さんの組織変更もあって、私も契約を終える事になりました。

 

前出の営業さんからすぐに次の仕事の提案を頂きましたが、

そこはあまり肌に合わず、1年で去りました…

 

 

 

 

結局、幼い頃あんなに憧れていたプログラマーでしたが、

私がプログラマーとして仕事をしたのはこの3年程だけでした。

 

 

短い間の、小さな小さな矜持でしかありませんが。

 

たしかに自分は達成した。

 

そう思える事が自分を支える一つの柱であることは、

疑う余地もありません。

 

 

 

 

プログラマの終わり頃に開発を含めた移行プロジェクトに携わり、

それがきっかけになったのか、移行プロジェクトばかりに関わるように。

 

少しずつプログラム開発からタスクが離れていき、

それと共にインフラ作業の比率が増えていき、

そうして気付けば今。

 

 

いつの間にかインフラSEとして生きています。

 

 

大手ベンダの仕事と関わるようになってからは、

これが生業と自信を持って言える位には稼いで、

それなりに困る事が少ない暮らしを送っています。

 

しんどい事もいっぱいいっぱいいーっぱいありますが、

期待して任せて頂く仕事も増えましたし、

現場の関係者からも嬉しい評価頂いたり。

 

やっぱり、基本的に好きな事だからなんでしょうか。

鬱になる事もなく元気に楽しく働いてますね。

 

 

 

 

 

だから、やっぱりこう思うんです。

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになって、

人生充実してるなーって!!!

 

 

 

– 終わり –

 

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(2)

高校時代の話になります。

 

IT業界を目指す人にとっては何一つ役に立つ事は書いてません。

お役立ち情報を求めて辿り着いてしまった方には敢えて言いましょう、

ごめんなさいと。

 

—————————————————————

 

外圧に負けて悔しい選択だったものの、無事高校生にはなりました。

普通科の高校生になってしまいましたショボーン

 

 

さあ高校始まるぞーワクワク音譜

 

っていう記憶が微塵もミジンコオバケ程も残っていないので、

やっぱり楽しみでは無かったんだろうなと思います。

失意の方が強かったというか、しょんぼりしてた筈です。

 

 

入学式桜を経ていよいよ新生活、まずはクラス分けですね。

私のクラスは芸術科目選択「音楽」の集まり。

そしてその教室には、以前から気になっていた彼の姿が。

 

 

はっきりと覚えています。

合格発表の帰り、すぐ前を歩いていた彼。

襟足なげーな猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたまと思ってた私。

そしてふと振り向いた彼。

 

彼はとても綺麗な顔立ちをしていました。

念の為ですが、私は男色のケは欠片もありません。

それでも強く印象に残っていたのです。

 

これが、数十年に渡って付き合いの続く友人Yの、最初の印象です。

(今はもう、見る影もないオッサンに成り果てましたが😁)

 

 

 

 

中学生の頃はパソコンの他、アニメやゲームも大好きでした。

そんな私が布施のアニメイトで買った、「吸血鬼ハンターD※1」の下敷き。

これが友人Yとの縁を繋ぐキッカケになりました。

吸血鬼ハンターDの第一作がOVA化された時、
音楽を担当したのが小室哲哉氏でした。
主題歌は勿論、TM NETWORK

そして“Y”と私、二人ともが大好きだったユニットです。

 

 

む。
だった?今も好きです。ゲッワイゲッワイ!

 

 

 

同じものが好きと分かれば、話題もはっきりする訳で。

共通項を見つけた我々は、どんどん仲良くなりました。

その出会いが更に出会いを呼んでいきます。

 

小室哲哉氏に憧れたキーボーディストの“Y”

父親仕込みのギター好き、“O”

BOOWYのベースに憧れていたという、E”

機会があればバンドやってみたかった、“I”

そして歌うのが好きだった、私。

 

 

プログラマーになろうとしていたはずの子供は、

なぜか高校生になって早々に道を違えてしまい、

バンドやろうぜ!!

とか言い出してしまったのです。

 

 

 

ただこの時たった一つだけ誤算がありました。

私は歌が好きなだけでとても下手だった笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

同学年にとても歌の上手いボーカルも居たので、

私はすぐにお払い箱うずまきとなりました。

 

遊びの輪には居るけれど、バンドの話じゃ蚊帳の外。

又しても、いつぞや感じた生暖かい視線がやらかい場所に。

 

 

 

ならばやはり初心に戻って、プログラマーを目指して頑張るべき!

プログラマーに俺はなる!!!

とは考えなかった当時の私。

 

 

 

 

 

ボーカルをクビになった私は、

よろしい。ならば演奏だ。

と考えたのです。何故だったんだろう。

 

 

 

バンドやる訳じゃないし一人で出来る楽器、

という事を考えた覚えはあります。

幸いな事に、家には妹が弾いてたピアノがありました。

 

ピアノがあるからと言って

キーボードをやるとでも思ったか。

 

どういうロジックだったかは不明ですが、とにかく私は、

ギターを弾け(るようになり)たいと思ってしまったのですびっくり

 

 

何故だ!? 

「坊やだからさ」

 

「今度こそやりたい事をやる!!」って反発心だったのかも知れません。

 

そうして高1の夏休み、ギター代を貯める!

と意気込んで、初めてのアルバイトに挑戦しました。

 

 

 

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

それを市内のSHARP工場へ搬送。

それを夏休みが終わるまで、の契約です。

 

初めての仕事で解らない事だらけ。

それ以上に、様々な面で坊やでした。

めちゃくちゃに御迷惑をお掛けして、

それでも優しく指導して頂いて。

申し訳なさ過ぎて、今思い出しても泣けてきますえーん

 

 

そうやって挫けそうになりながら掴んだお金は、

ひと夏でなんと5万円。

 

 

 

ナケナシの5万を握り締めての新学期。

ギターを買いに都会へ向かおうとする私に、

思い掛けず着いて来てくれると言ったのは“Y”でした。

 

 

彼の勧めるまま、あちこちの楽器店を巡り、候補にしたのが

MG-M※2(M2だったかも)と、フェンダージャパンのストラト。

 

 

悩んだ末、ストラトに決定。

 

決め手は「見た目」でした。

とにかくひと目見て心奪われたんですよね。

私見ですが、男子高校生にとって見た目って重要じゃないですか?

 

 

ギターのモデル名とかは覚えてません。

濃い茶色のボディに白ピックガードでした。

 

ST62-115 WALが一番似てますが、

私のギターは金属パーツがシルバーだったので、

下位モデルだったのかも知れません。

上記型番はレア物らしく、値段もお高いようです。

 

 

 

それからは友人にバンドスコア(楽譜)を借りて練習する毎日。

CDに合わせて一曲間違えずに弾けるまで繰り返す。

一応「その曲に聞こえる」ようになったのは半年後くらいでしょうか。

 

ある日の音楽の授業で、複数人で音楽を演奏する課題が出ました。

私は初めたばかりなのか微妙な時期のギターを披露する事になり、

“Y”ではないキーボード奏者の友人“K”と一緒に演奏しました。

考えてみれば、あれが人生初のステージでした。。。緊張したガーン

 

 

これを聞いた“Y”達とは別のバンドメンバーに誘われ、

卒業するまでLINDBERGのコピーバンドをやってました。

私と“K”、あとの3人が女子。十分楽しい毎日でした。

 

高3では学祭ライブにも出て、体育館のステージ上で演奏しました。

緊張で指は動かず、一曲目でいきなり弦が切れ、下手すぎて許せないと酷評され。

これについては、散々だった記憶しかありません。。。

 

 

 

そんなこんなで楽器を手にしてしまった私は、

プログラムそっちのけでギターを弾いて高校生活を終えたのでした。

 

 

 

情報分野の方はどうだったのか、というと。

数学の苦手感もやもやはアップして、常時赤点みたいな状況で。

 

補習の常連になったお陰で数学教師とも仲良くなりました。

大学受験も経済・経営と文系学科、受験科目は英国社。

 

 

話の流れ的にも、SEになれそうな気配は無いですね。

実際、ありませんでした。皆無でした。

プログラマーの道はもう、諦めてました。

この時点では。

 

 

 

 

さてさて。

高校卒業でバンドも解散したので、

次の場を大学の軽音部に求めました。

 

しかしそこはメタリックな重低音が響く、

時はまさに世紀末

 

アンプのツマミが少しズレた程度でも人を殺しそうな先輩たち。

けいおん!みたいな明るさは欠片もありません。

あれは重音部だろ、といった友人の言が忘れられません。

 

 

ここは初心者の来る場所じゃないなと、すぐ退散しました。

そして道端で勧誘された新歓コンパというタダ酒に釣られて、

音楽と関係ない旅行サークルに入り、知らなかった遊びを色々教わり。

 

そろそろ二十歳を迎えようという頃に、一つの転機を迎えたのです。

 

 

といった所で、次回に続きます。

今回は書いてる内に雑な文章になってしまったり、

引用ネタが多くなってしまいました。

 

 

・・・ところで、今はもう下敷きって使わないんですかね?

 

 

※1

ちなみに吸血鬼ハンターDですが、

1983年1月の第一作発表から今なお未完の超大作です。

挿絵はかの天野喜孝画伯。FFが有名でしょうか。

最新刊は2018年4月の46巻(エピソードとしては33)となっています。

 

※2

B’zの松本孝弘氏が初期ライブで使っていたモデルです。
ちなみに後年、素のMG(誰モデルでも無い物)を購入しています。
MGはとても弾きやすくて、かなり長い間使っていました。
最初にMG-Mを買っていたら、ギターの本数は随分減っていたでしょうてへぺろ

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(1)

プログラマになりたい乙女のトキメキ、と思ったのは小学生の頃でした。

友人の家にあったPC-66、そしてベーマガ※1

衝撃を受けた、という程の記憶はないんですけど。

プログラムって物がなんだかカッコよく見えました。

 

 

当時はどれほど高価※2な物かも知らず、

ただパソコン欲しいって言ってました。

「おばあちゃんパソコン買ってラブラブ

「はい、グラスホッパー車

「イヤンそれラジコ~ンチュー

 

・・・とあるクリスマスの懐かしい記憶です。

 

 

 

初めてパソコンに触れたのは中学生。

父親が仕事用に買ったPC-98でした。

5インチのペラッペラなフロッピーディスク手裏剣

ガッチョンガッチョンむかっやかましい2台のドライブ、

電源投入時のピポッ右上矢印てBEEP音。

・・・こうやって書いてるだけでも懐かしいですね。

 

 

といっても大した事をしてたって訳でもなく、

ベーマガ掲載プログラムを入力して動かしたり、
たまに自分のオリジナルでプログラムを作ったり。

プログラムの基本のキはこの頃学びました。

 

友達に借りたゲームで遊んだりもしましたね。

チート用ツールみたいなものは当時もあって、

ゲームのセーブデータを弄ったり。

コンピュータのメモリとアドレス、バイト表現、16進等、

仕組の部分もそうやって学んだ気がします。

 

 

今の自分に通じる基礎はほぼこの頃で学びました。

とにかく全てが楽しくて仕方なかったです。

他人のプログラムを見ながら、

ここをこう変えたらどうなるの??

あれ、なんかヘンになっちゃたもやもや

ここでこうして・・・ここまでOKかガーン

じゃあこれ?おおお上手くいったー!お祝い

みたいな感じで。

 

デバッグは遊びの延長線上にあって、

そしてそのまま学びになってました。

 

 

普段がそんなですから、担任にも言う訳ですよ。

「将来はプログラマーになりたい」って。

高校受験の時には、高専に行きたいって。

(当時既に、高専には情報科がありました)

 

そんな私ですが、数学の点数は非常に低く。

どうにも苦手だったんですねえ・・・

(得意科目は国社英。文系SEの典型ドクロ

 

 

なので担任は必死のパッチで阻止してくる訳です。

「その数学の点じゃ無理」

「苦手科目の進学は将来大変」

「高専は理系短大扱いで就職厳しい」

※1980年代の中学教師の認識です
 

これは三者面談なんかで担任とかなりやり合いました。

自分の人生、他人に口出しされる謂れはない!

とかって。

 

 

 

最終的に、担任の方から

「別の私学も公立も受けるなら高専受けてもイイヨOK

って(なんで上からなのかはともかく)妥協案が出て、

それに両親が同意してしまったので。

バーター条件の元、高校受験に臨みました。

 

滑り止めの私立電子科、本命の高専、

金銭的理由から公立普通科、のラインナップです。

 

 

私立は滑り止めというのもあって無事合格。

本命の高専は思ったより試験の手応えもよく、

同じ中学から受けた5人との答え合わせもバッチリ。

沢山の人の期待に応え、見事に私だけ不合格合格でした。

 

合格した4人の生暖かい視線で心のやらかい場所が痛かったです。

 

 

この時点で自分の中では私学進学が決定してました。

私学進学の希望を伝えても、公立は受けろと押す担任。

行く気もないのに受験とか時間も金も勿体無い、と私。

担任がどこがオススメだ、ここの学校もイイ、などと

あれこれ勧めてくるけど、全部聞き流してました爆  笑

 

 

最終的には、親が担任に説得されてしまって、

不承不承ながら受験する事になってしまいました。

 

受験後、前年より倍率がグンと上がった事が判明し、

担任にめっちゃくちゃ謝られたのですが、

そんなものこっちからすればシメシメですよ。

ラッキー以外の何者でもねぇな!と思ってました。

 

そして卒業式を経て合格発表へ。

沢山の人の期待に応え、見事に合格ガックリでした…。

 

ま、合格したトコロで俺はどうせ私立に行くんだし。

 

 

 

 

 

 

 

そう思っていた時期が私にもありました。

 

お金の事で泣き付かれては、

養われる身では抗う術もありません。

周囲からの強固な説得というか脅迫、

それらに負けて公立へ進学しました。

 

 

もの凄く悔しかった事を覚えています。

大人が勝手に決めた答えを押し付けられた事。

それに説得されてしまった自分に対する失望。

 

 

 

今冷静になって考えてみれば、試験で手を抜けばよかった。

それだけの事だったんですよね。。。

まだまだ、子供でした。

 

 

この後高校、大学を経て、社会人になっていきますが、

続きはまた後日。

 

 

※1 電波新聞社のマイコンベーシックマガジン。パソコンではなくマイコン

※2 NECの名機PC-88の標準価格は228,00円。当時の大卒初任給は13万程