IT業種に転職したとき

検索ワードに「転職」がチラホラ見受けられるのですが、

IT業種に転職を希望している人って今多いのでしょうか。

 

やってみたいけどどんな仕事かよく分からないし、

という不安感で踏み出せないケースもあると思います。

だけど、興味を持って、自分で勉強する意欲があれば、

きっと何とかなると思います。

私自身、文系未経験資格なし、の状況で飛び込んだので。

 

 

転職を考えている人の参考になるかどうか解らないですが、

いくつかの経験談を書いてみようと思います。

 

■未経験からIT業種へ

・業務内容 : 携帯端末テスター

・就業形態 : 派遣社員

新聞の折込広告を見て電話しました。

派遣会社、就業現地での面接を経て就業。

当時の私はIT業というか正社員未経験でした。

中学生の頃にBASICでプログラミングを経験していた事、

就業の2年くらい前からHTML、JavaScriptを独習して、

小さなホームページを作った事がありました。

この仕事では、HTMLタグに理解がある部分がポイントだったそうです。

 

 

■プログラマ未経験から基幹系業務アプリ開発者へ

・業務内容 : 基幹システム移行→基幹系業務アプリ保守・開発

・就業形態 : フリーランス

前職のテスター時代にお世話になってた営業さんが独立されて、

そこからお仕事を貰う形でフリーランス状態に。

この営業さんのツテでねじ込んで貰ったお仕事でした。

 

最初はシステム移行に伴うDB(Oracle)移行ツール作成。

この時点で私はSQLが何か知りませんでした。

そしてVB6は趣味プログラム程度の経験(基本概念が分かるレベル)。

厚さ15cmくらいの社員教育用ドキュメントを渡されて、

これ一週間で覚えてきて、って言われたのをとても強く覚えてます。

この頃は帰宅後も結構勉強してました。

移行PJ終了後、保守開発メンバーとして契約継続頂きました。

一緒に入った10歳年上の方は契約終わってしまったので、

勉強した甲斐があったなと思います。

 

 

■プログラマからインフラSEへ

・業務内容 : Webサーバ移行(新環境構築+コンテンツ移行)

・就業形態 : フリーランス

プログラマでの契約完了後少し仕事が無い期間があり、

つなぎにどうか?と提案された仕事でした。

自作PCに興味があって、AMDがK6出した頃からPCを組んだり、

またLinuxに興味があったのでWinとLinのデュアルブート環境を作ったり、

Linux上でHTTP、FTP、DNS、iptables(ファイアウォール)等を構築してました。

ネットワークやインフラ的な素養はこの頃に身についたのだと思います。

プログラマ時代の環境もUNIXだったので、CUI操作にも慣れてました。

 

 

 

派遣社員からそのままフリーランス暮らしで、そろそろ20年になります。

最初は不安でいっぱいのまま飛び込んだ業界でしたが、

コンピュータを触って、それが意図通りに動く、それがとても楽しくて。

どこかでだれかに習うでもなく、調べて試して失敗して、を繰り返してきました。

 

今では天職だったとしか思えないくらい馴染んでいます。

 

 

 

 

 

余談ですが、月収は未経験の頃を1とすると、プログラマ時代で1.5、

インフラ系に携わってすぐの頃は2.5、現在は案件によって幅がありますが、

最低3.5、多い時で5、といった水準です。

 

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(3)

IT業界にかかわるまでの話です。
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二十歳になろうかという頃、
一つの転機が訪れました。

しばらく音信不通だった“Y”から久しぶりに連絡があったのです。

曰く「一緒にバンドをやらないか」と。

聞けば、大学の軽音部でバントを組んだものの、
ギター担当がかなりもやもやな方だったようです。

私もちょうどギターを弾く場がなかったので、
それなら一度、とリハスタに集まりました。

2時間程一緒に演奏して、その日のうちに正式メンバーに。
“Y”の紹介でリハスタ店員のバイトにもあり付きました。

それから五年間はバンド三昧の日々。
大学はサークルの部室に顔を出すくらいになってしまい、
挙げ句、四年通った時点で辞めてハートブレイクしまいました。

(しかも色々あって除籍扱いムカムカ

 

これは当時親と相当揉めました(当然ですが)し、

自分自身かなりの後悔ガーンがあったのだと思います。

何度も何度も、10年以上経ってさえ、入学し直す夢を見ました。

 

あまりの申し訳なさに耐えきれなくなって、

30歳くらいの頃に親に全額返済コインたちしました。

それでもまだ、夢に見ます。

 

 

 

 

そんな風になるなんて思いもしないまま。

リハスタの店員をしながら、せっせとライブ活動ギターを続けてました。
いつしかメンバー同士、プロを目指そうと話すようになっていき。
バンドが全てに優先する生活でした。

とても充実した時間でした。

 

気付けば、25歳になってました。

 

バンドも悪くはないものの、特別な存在にはなれないまま。

バイトでその日暮らしの自分に、自分の将来に、

不安を感じはじめ、就職が頭をチラつくようになりました。
 

 

そんなある日。

「就職考えてるんだって?」
と、リハスタの社長に勧められたのが。
そう。
プログラマー
だったんです。

リハスタ店員で一番コンピュータに詳しかった事。

店舗システムについて色々話していた事。

社長とのそれまでの会話から、

こういう方面が得意なのでは?と感じていたそうです。

ただこの頃、私の気持ちは正直に言って
全然プログラマーの方を向いていませんでした。
恥ずかしながら、今後の職業の選択肢に
思い浮かんですらいないという有様でした。

だから、この時の話が無かったら、

私の今は全然違うものだったと思います。

“Y”との繋がりから生まれた社長との繋がり、
それが私の人生を大きく変化させたのです。

社長と話してすぐ、ハローワークへ向かいました。

初めての就職活動でした。

小さな一軒家をオフィスにする、
小さな会社の採用面接を受けました。
落ちました

めげずにすぐハローワークへ行きました。

すぐに次の面接を受けに行きましたが、
それも落ちました

5社くらい落ちると、少し不安が芽生え始めました。

不採用になる可能性(それも普通より高いはずの)を意識出来てませんでした。

無邪気ですね。

何の勉強もして来てないのに、いきなり雇ってくれなんてアセアセ

今考えたら分かりますけど、役に立ちそうに思えないですよね。

 

 

 

そこで、そもそも考え方が間違ってるのかな?
と少し方向性を変えてみました。

正社員が無理なら派遣でもいいじゃないか。

IT系の仕事で定収を得る、が本来の目的だったはず。

 

何でもいいから、まずIT関係といえる仕事を初めてみよう。

初めてみなければ次のステージだって見えるはずがない。

その場に立ってなければチャンスだって巡ってこないだろう。

 

 

新聞の折込広告で目にした、WEBサイト作成者募集。
ホームページのHTMLを手書き出来たのが幸いしたか、

この仕事は即採用になりました。

こうして、中学高校大学その後と回り道をし続けて、

ようやくIT業界への第一歩をようやく踏み出したのです。

 

 

続きはまた、次回に。

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(2)

高校時代の話になります。

 

IT業界を目指す人にとっては何一つ役に立つ事は書いてません。

お役立ち情報を求めて辿り着いてしまった方には敢えて言いましょう、

ごめんなさいと。

 

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外圧に負けて悔しい選択だったものの、無事高校生にはなりました。

普通科の高校生になってしまいましたショボーン

 

 

さあ高校始まるぞーワクワク音譜

 

っていう記憶が微塵もミジンコオバケ程も残っていないので、

やっぱり楽しみでは無かったんだろうなと思います。

失意の方が強かったというか、しょんぼりしてた筈です。

 

 

入学式桜を経ていよいよ新生活、まずはクラス分けですね。

私のクラスは芸術科目選択「音楽」の集まり。

そしてその教室には、以前から気になっていた彼の姿が。

 

 

はっきりと覚えています。

合格発表の帰り、すぐ前を歩いていた彼。

襟足なげーな猫しっぽ猫からだ猫からだ猫からだ猫あたまと思ってた私。

そしてふと振り向いた彼。

 

彼はとても綺麗な顔立ちをしていました。

念の為ですが、私は男色のケは欠片もありません。

それでも強く印象に残っていたのです。

 

これが、数十年に渡って付き合いの続く友人Yの、最初の印象です。

(今はもう、見る影もないオッサンに成り果てましたが😁)

 

 

 

 

中学生の頃はパソコンの他、アニメやゲームも大好きでした。

そんな私が布施のアニメイトで買った、「吸血鬼ハンターD※1」の下敷き。

これが友人Yとの縁を繋ぐキッカケになりました。

吸血鬼ハンターDの第一作がOVA化された時、
音楽を担当したのが小室哲哉氏でした。
主題歌は勿論、TM NETWORK

そして“Y”と私、二人ともが大好きだったユニットです。

 

 

む。
だった?今も好きです。ゲッワイゲッワイ!

 

 

 

同じものが好きと分かれば、話題もはっきりする訳で。

共通項を見つけた我々は、どんどん仲良くなりました。

その出会いが更に出会いを呼んでいきます。

 

小室哲哉氏に憧れたキーボーディストの“Y”

父親仕込みのギター好き、“O”

BOOWYのベースに憧れていたという、E”

機会があればバンドやってみたかった、“I”

そして歌うのが好きだった、私。

 

 

プログラマーになろうとしていたはずの子供は、

なぜか高校生になって早々に道を違えてしまい、

バンドやろうぜ!!

とか言い出してしまったのです。

 

 

 

ただこの時たった一つだけ誤算がありました。

私は歌が好きなだけでとても下手だった笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

同学年にとても歌の上手いボーカルも居たので、

私はすぐにお払い箱うずまきとなりました。

 

遊びの輪には居るけれど、バンドの話じゃ蚊帳の外。

又しても、いつぞや感じた生暖かい視線がやらかい場所に。

 

 

 

ならばやはり初心に戻って、プログラマーを目指して頑張るべき!

プログラマーに俺はなる!!!

とは考えなかった当時の私。

 

 

 

 

 

ボーカルをクビになった私は、

よろしい。ならば演奏だ。

と考えたのです。何故だったんだろう。

 

 

 

バンドやる訳じゃないし一人で出来る楽器、

という事を考えた覚えはあります。

幸いな事に、家には妹が弾いてたピアノがありました。

 

ピアノがあるからと言って

キーボードをやるとでも思ったか。

 

どういうロジックだったかは不明ですが、とにかく私は、

ギターを弾け(るようになり)たいと思ってしまったのですびっくり

 

 

何故だ!? 

「坊やだからさ」

 

「今度こそやりたい事をやる!!」って反発心だったのかも知れません。

 

そうして高1の夏休み、ギター代を貯める!

と意気込んで、初めてのアルバイトに挑戦しました。

 

 

 

来る日も来る日も機械製品の梱包作業。

それを市内のSHARP工場へ搬送。

それを夏休みが終わるまで、の契約です。

 

初めての仕事で解らない事だらけ。

それ以上に、様々な面で坊やでした。

めちゃくちゃに御迷惑をお掛けして、

それでも優しく指導して頂いて。

申し訳なさ過ぎて、今思い出しても泣けてきますえーん

 

 

そうやって挫けそうになりながら掴んだお金は、

ひと夏でなんと5万円。

 

 

 

ナケナシの5万を握り締めての新学期。

ギターを買いに都会へ向かおうとする私に、

思い掛けず着いて来てくれると言ったのは“Y”でした。

 

 

彼の勧めるまま、あちこちの楽器店を巡り、候補にしたのが

MG-M※2(M2だったかも)と、フェンダージャパンのストラト。

 

 

悩んだ末、ストラトに決定。

 

決め手は「見た目」でした。

とにかくひと目見て心奪われたんですよね。

私見ですが、男子高校生にとって見た目って重要じゃないですか?

 

 

ギターのモデル名とかは覚えてません。

濃い茶色のボディに白ピックガードでした。

 

ST62-115 WALが一番似てますが、

私のギターは金属パーツがシルバーだったので、

下位モデルだったのかも知れません。

上記型番はレア物らしく、値段もお高いようです。

 

 

 

それからは友人にバンドスコア(楽譜)を借りて練習する毎日。

CDに合わせて一曲間違えずに弾けるまで繰り返す。

一応「その曲に聞こえる」ようになったのは半年後くらいでしょうか。

 

ある日の音楽の授業で、複数人で音楽を演奏する課題が出ました。

私は初めたばかりなのか微妙な時期のギターを披露する事になり、

“Y”ではないキーボード奏者の友人“K”と一緒に演奏しました。

考えてみれば、あれが人生初のステージでした。。。緊張したガーン

 

 

これを聞いた“Y”達とは別のバンドメンバーに誘われ、

卒業するまでLINDBERGのコピーバンドをやってました。

私と“K”、あとの3人が女子。十分楽しい毎日でした。

 

高3では学祭ライブにも出て、体育館のステージ上で演奏しました。

緊張で指は動かず、一曲目でいきなり弦が切れ、下手すぎて許せないと酷評され。

これについては、散々だった記憶しかありません。。。

 

 

 

そんなこんなで楽器を手にしてしまった私は、

プログラムそっちのけでギターを弾いて高校生活を終えたのでした。

 

 

 

情報分野の方はどうだったのか、というと。

数学の苦手感もやもやはアップして、常時赤点みたいな状況で。

 

補習の常連になったお陰で数学教師とも仲良くなりました。

大学受験も経済・経営と文系学科、受験科目は英国社。

 

 

話の流れ的にも、SEになれそうな気配は無いですね。

実際、ありませんでした。皆無でした。

プログラマーの道はもう、諦めてました。

この時点では。

 

 

 

 

さてさて。

高校卒業でバンドも解散したので、

次の場を大学の軽音部に求めました。

 

しかしそこはメタリックな重低音が響く、

時はまさに世紀末

 

アンプのツマミが少しズレた程度でも人を殺しそうな先輩たち。

けいおん!みたいな明るさは欠片もありません。

あれは重音部だろ、といった友人の言が忘れられません。

 

 

ここは初心者の来る場所じゃないなと、すぐ退散しました。

そして道端で勧誘された新歓コンパというタダ酒に釣られて、

音楽と関係ない旅行サークルに入り、知らなかった遊びを色々教わり。

 

そろそろ二十歳を迎えようという頃に、一つの転機を迎えたのです。

 

 

といった所で、次回に続きます。

今回は書いてる内に雑な文章になってしまったり、

引用ネタが多くなってしまいました。

 

 

・・・ところで、今はもう下敷きって使わないんですかね?

 

 

※1

ちなみに吸血鬼ハンターDですが、

1983年1月の第一作発表から今なお未完の超大作です。

挿絵はかの天野喜孝画伯。FFが有名でしょうか。

最新刊は2018年4月の46巻(エピソードとしては33)となっています。

 

※2

B’zの松本孝弘氏が初期ライブで使っていたモデルです。
ちなみに後年、素のMG(誰モデルでも無い物)を購入しています。
MGはとても弾きやすくて、かなり長い間使っていました。
最初にMG-Mを買っていたら、ギターの本数は随分減っていたでしょうてへぺろ

担任教師の「諦めろ」に負けずSEになった話(1)

プログラマになりたい乙女のトキメキ、と思ったのは小学生の頃でした。

友人の家にあったPC-66、そしてベーマガ※1

衝撃を受けた、という程の記憶はないんですけど。

プログラムって物がなんだかカッコよく見えました。

 

 

当時はどれほど高価※2な物かも知らず、

ただパソコン欲しいって言ってました。

「おばあちゃんパソコン買ってラブラブ

「はい、グラスホッパー車

「イヤンそれラジコ~ンチュー

 

・・・とあるクリスマスの懐かしい記憶です。

 

 

 

初めてパソコンに触れたのは中学生。

父親が仕事用に買ったPC-98でした。

5インチのペラッペラなフロッピーディスク手裏剣

ガッチョンガッチョンむかっやかましい2台のドライブ、

電源投入時のピポッ右上矢印てBEEP音。

・・・こうやって書いてるだけでも懐かしいですね。

 

 

といっても大した事をしてたって訳でもなく、

ベーマガ掲載プログラムを入力して動かしたり、
たまに自分のオリジナルでプログラムを作ったり。

プログラムの基本のキはこの頃学びました。

 

友達に借りたゲームで遊んだりもしましたね。

チート用ツールみたいなものは当時もあって、

ゲームのセーブデータを弄ったり。

コンピュータのメモリとアドレス、バイト表現、16進等、

仕組の部分もそうやって学んだ気がします。

 

 

今の自分に通じる基礎はほぼこの頃で学びました。

とにかく全てが楽しくて仕方なかったです。

他人のプログラムを見ながら、

ここをこう変えたらどうなるの??

あれ、なんかヘンになっちゃたもやもや

ここでこうして・・・ここまでOKかガーン

じゃあこれ?おおお上手くいったー!お祝い

みたいな感じで。

 

デバッグは遊びの延長線上にあって、

そしてそのまま学びになってました。

 

 

普段がそんなですから、担任にも言う訳ですよ。

「将来はプログラマーになりたい」って。

高校受験の時には、高専に行きたいって。

(当時既に、高専には情報科がありました)

 

そんな私ですが、数学の点数は非常に低く。

どうにも苦手だったんですねえ・・・

(得意科目は国社英。文系SEの典型ドクロ

 

 

なので担任は必死のパッチで阻止してくる訳です。

「その数学の点じゃ無理」

「苦手科目の進学は将来大変」

「高専は理系短大扱いで就職厳しい」

※1980年代の中学教師の認識です
 

これは三者面談なんかで担任とかなりやり合いました。

自分の人生、他人に口出しされる謂れはない!

とかって。

 

 

 

最終的に、担任の方から

「別の私学も公立も受けるなら高専受けてもイイヨOK

って(なんで上からなのかはともかく)妥協案が出て、

それに両親が同意してしまったので。

バーター条件の元、高校受験に臨みました。

 

滑り止めの私立電子科、本命の高専、

金銭的理由から公立普通科、のラインナップです。

 

 

私立は滑り止めというのもあって無事合格。

本命の高専は思ったより試験の手応えもよく、

同じ中学から受けた5人との答え合わせもバッチリ。

沢山の人の期待に応え、見事に私だけ不合格合格でした。

 

合格した4人の生暖かい視線で心のやらかい場所が痛かったです。

 

 

この時点で自分の中では私学進学が決定してました。

私学進学の希望を伝えても、公立は受けろと押す担任。

行く気もないのに受験とか時間も金も勿体無い、と私。

担任がどこがオススメだ、ここの学校もイイ、などと

あれこれ勧めてくるけど、全部聞き流してました爆  笑

 

 

最終的には、親が担任に説得されてしまって、

不承不承ながら受験する事になってしまいました。

 

受験後、前年より倍率がグンと上がった事が判明し、

担任にめっちゃくちゃ謝られたのですが、

そんなものこっちからすればシメシメですよ。

ラッキー以外の何者でもねぇな!と思ってました。

 

そして卒業式を経て合格発表へ。

沢山の人の期待に応え、見事に合格ガックリでした…。

 

ま、合格したトコロで俺はどうせ私立に行くんだし。

 

 

 

 

 

 

 

そう思っていた時期が私にもありました。

 

お金の事で泣き付かれては、

養われる身では抗う術もありません。

周囲からの強固な説得というか脅迫、

それらに負けて公立へ進学しました。

 

 

もの凄く悔しかった事を覚えています。

大人が勝手に決めた答えを押し付けられた事。

それに説得されてしまった自分に対する失望。

 

 

 

今冷静になって考えてみれば、試験で手を抜けばよかった。

それだけの事だったんですよね。。。

まだまだ、子供でした。

 

 

この後高校、大学を経て、社会人になっていきますが、

続きはまた後日。

 

 

※1 電波新聞社のマイコンベーシックマガジン。パソコンではなくマイコン

※2 NECの名機PC-88の標準価格は228,00円。当時の大卒初任給は13万程